遠いなどと

おはようございます。

今朝の三日月はきれいです、太陽の輝きにも感謝ですが、お星様の輝きを消さないお月様もいいですね。
お月様はどこで眺めても同じなのですが周囲の景色で違って見える、歌にも「月がとってもきれいので遠回りして帰ろう」などとあるようにやはり違います。
昨朝は札幌のホテルでユックリと目覚め書き込みをして朝食を摂りシャワーを浴び頭を剃りスッキリとしてお昼前の飛行機に乗り関西空港に降り立ち4時過ぎ宇治に帰りました、満席でした。
飛行機は速いのですがやはり北海道は遠い、乗り物に乗っているだけで最近は疲れを感じます、余り思いたくはないのですが、遠い。でも仕事も新しい出会いも好きですので辛いとは思ってはおりません。
昨日から遠い東京から断食の修行に来ている方がおりますので遠いなどと嘆いていては罰が当たります、心華寺にも全国からお出で頂くわけですから私が全国に出向くことで嘆いていてはいけませんね、叱られます。
修行中にはよく師匠に叱られました、兄弟弟子の中では最もよく叱られました、これは良い想い出です。
私は考えるということが苦手でしたので、思い立つと直ぐ実行という気性なのです、前後の見境無く進んでしまう、それでよく叱られ失敗もしました。
叱られて失敗して覚えるというのが私です。考える能力のない私は先ず実践、ということで覚えようとしていたのです。
師匠が叱ってくれるというのは叱るためではなく「正してくれる」ためであり、そういう「師の言葉を信じた」からでもあります。信じるということは「基準、物差し」を持つということでもあります。
長さを測るには物差し、物事を正すには道理法則、といった具合に、私にとって師匠の言葉が「基準」であったのです。
叱られるということはもちろん好ましいものではありません、ですから「叱られ帳」というものを私は作っていました、叱られたことを「書き留めておく」ためです。二度と同じ事で叱られないようにというのが「学びの方法」だったのです。
考えられない者が記憶できるはずはないのです、だから「書く」、何度も書いておりますが、失敗しよう、間違えようなどと考えて行動する人間はおりません、私も同様です、しかし間違う、失敗する、ですから「書き留めておく」これをくり返すことによって「体得」出来るのです。
今日からまた二名の研修があり、個人修行の方も来られます、指導するのでは無く共に行ずる気持ちで相対したいと思っております。遠いなどと言ってはおられないのです、反省しております。
 
世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。     合掌