布施

おはようございます。

昨日夕方から高速を走り滋賀県長浜の知人の寺に行き旧交を温め泊めていただき今朝3時に起きて帰ってきました。
田圃には刈り取られた稲の切り株しかなく何となく寂しい風情、山を見れば少し紅葉した景色、輝くときもあれば失うときのあることを改めて感じとり、人生もこのようであろうとの想いを致しました。
昨日は信者さんが毎日使います「佛器」磨きの奉仕に来てくださり、毎月お手伝いいただいているのですがありがたいことです。
佛器は祈るときに用いる大切な「道具」です、「道具」とはよく言ったもので、私たちの日常生活の中で「何かしらの道具を用いる事で」物事を完成することが出来ます、その物を物とするのではなく先人は「大切な物と」して「道具と称した」素晴らしい発想ネーミングです。
道に欠かすことの出来ない、具わった「物」が「道具」なのです。
物を物として扱うのではなく「人格を持つもの又それ以上のもの」として自分以上の「物」とする、いつの時代にも大切な考え方です。
「物を大事にしない人は人をも大事にしない」とも言えるのではないでしょうか、また物を軽く扱うということは「自分を粗末にしている」と言っても過言ではないでありましょう。それくらい私たちは「道具によって」助けられ、また自分を表現できるのです。
このように考えれば単なる物として扱うことは出来ませんし、扱うべきではないのです。
私たち人間の能力、発想は素晴らしいものです、そこから生まれた「物」によって「能力以上の力」が発揮できることを思えば一層大事にしなければなりません。
小僧時代に「佛器」を磨くことは「自分を磨くこと」と教えられました、これはどんな世界にでも通じる考え方だと思っております。皆さんも毎日お世話になる「道具」を是非大事にしてください。
奉仕の信者の皆さんには本当に感謝です、この「佛器」磨きだけではなく、掃除や護摩木割や様々に奉仕を下さる方が沢山おられます、寺への奉仕は特定の方に対する奉仕ではなく、あらゆる人々への奉仕になっているのです、不特定の奉仕が本来の「布施」でもあり、その自然な行為が「心を豊かにし」豊かな人生へと導くのです。
一度皆さんも寺にご奉仕にお出かけになってみて下さい。今まで気づかなかった自分が見えてくるかも知れません。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。     合掌