懺悔練行

おはようございます。

昨日は穏やかな第一日曜でしたので皆さんとご一緒に「お祈り」をしました、一層穏やかな気持ちです。互いに別々に歩んでいるのですが「共にあれば安心がある」、いいものです心の世界は。
人は本来「共にあり」、「互いが互いに従う」のが道理なのです、「ぎょうにんべん」の本来意味するところは「共にある」ことなのです。従うと言いますと「隷属するという風に考えがちですが」そうではありません、「共に歩む」ことなのです。生活する中で特別なことなどは何もありません、あるとすれば「思いやる」ことでしょう。
人生は競争ではありませんし、人を尊敬はしても「うらやむ」こともないのです。競争や、羨み、嫉む心から「従う」ことが出来なくなるだけの話なのです。
自分をとって考えてみてもそれは良くおわかりのハズです、何か人に誇れるものを「これだ」と示せる人はいません、五十歩百歩でしょう、お互い様なのです。
自分を棚に上げて子供や身内に不平不満を持ち争うことほど愚かなことはありません。昨今の社会事情を見廻しますと、不登校や引きこもりなどは皆このようなことから起きているように思えるのです。
親から子供まで「生活という基盤の中で」同じように働くことが一番なのです。生活の中から感じたことで「勉強が必要と」感じたら勉強すれば良いのです、「実生活もないまま」理屈を先にしてしまい、何ら必要も感じないままに「点数だけで人間性を計る」ということでは「共に歩む」という最も「人間的な喜びを感じないまま」成長するほど悲しい事実はないのです。
豊かな家庭、豊かな国とは何でしょう、それは「心が豊か」で「助け合う」ことにあるのではないでしょうか、生活から感じとり、にじみ出た感情は何ものにも勝る「気力になる」のです。その気力を出すことが「共にある」ことから始まっていくことを知ることが大事なのです。
共にあることで今朝から弟子・誠澄が「五穀断ち、塩断ち」に加え33キロ心華寺〜山科の醍醐寺往復の「懺悔練行(さんげれんぎょう)」の行に入りました、歩き念仏し、諸堂を参拝し御仏と一体となる行、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を行一点に集中し懺悔しながら清浄にするのです。26日の朝まで続けます、続けることで心に透明感が生まれるのです(私の経験から)。
そして日々のお勤めで信者さんの心願を祈る行なのです、是非一度皆さんも一緒に随喜行(ずいきぎょう)「共に歩く行」に挑戦してみてください。
今彼を見送ったところです、これから約6時間歩いて戻ってきます、私はこれから少し又休みます。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。     合掌