祈る

おはようございます。

昨日は寒い冷たい風の吹く日曜でした。親子座禅会も無事に済ませ、研修に来たお二人も夜中に歩き、誠澄が毎日歩いていることに驚きつつ、疲れはあったでしょうが、午後から元気に帰られました。
今朝も昨日より冷え込んでいるようです、肌着を厚めにしました。
皆さんは「お祈り」をしておられますか、「心を安らかに平らに」することです。何に皆様は「安心を」求めておられるのでしょう?。私は「祈り」です。
何もいらない、何も必要でない、何も求めるものの無い世界「不増不減」の般若の「空」の世界、何ものにも拘らない解放感に満ちた世界です、是非祈りを続け体感してください。
不幸や不安はどこから来るのでしょう、それは「一定の心を持たない」からであり、お釈迦様はそれを「因縁」として説き示しておられます。
そう「因縁」によって「苦」は来たるのです。「心は持ちよう」といわれます、何を皆さんは「心に持っておられます」か「因は全て自分に在り」です。
この事にさえ気づけば後は簡単です。求めることをしなければ「安心で豊かな人生」となることを確約します。このように書きますと、お金も物も家も仕事も必要ではないかと必ず問われます、そう必要です、しかし「求めない」のです。求めなくとも「得られる」からです。
「求めれば去り、与えれば来たる」のが「道理」だからです。祈りはそのことを気づかせてくださり、自分の世界を大いなる世界へと「導いて」くれるのです。
私は自分という「因」を考えたとき、人と比べまして何一つ誇れるものは持ちません、ですが出来ることでの「手伝い」は出来ます、その事が嬉しく生き甲斐でもあり喜びでもあるのです、これだけなのです。このことが「与える」ことだと考えております。
共に仕事や何かを行いますと必らず「優劣」ができます、時に優秀な人を見れば「尊敬し見習い」、もしも私より劣った人があれば「共に」ということです。
このようにして「人と接して」行くことによって私にふさわしい世界が与えられたのです。それもこれも「祈り」によって目覚め気づかされたのです。
「目指す」とはどこを目指すのでしょう?「未来」です。未来を「安心」しながら目指すことが大事なのです。
今を不幸と考えて目指すことほど不幸はないのです。今を不幸と考えていることこそが「悪因」を作っているからです。今を不幸と思っていることが何故「悪因」なのでしょうか、
不幸と考えている人は「自分は悪くない」と考えているからです。
悪くないと考えているのであれば「幸せ」と思わなければならないはずですが、思えない、何故かといいますと「因縁」が理解できていないからです。
全て「因果は自分にある」ことに目覚めれば今を幸せと考えられるはずだからです。
自分の出来ることで未来永劫やっていこうとすればそこにこそ「安心」があり、世界は無限に広がっていくのです、祈りましょう。
今夜は「にんげん学」京都講座です、お誘い合わせの上是非ご参加下さい、会場でお待ち致しております。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。     合掌