自分が進み、自分が止める

おはようございます。

昨日はいいお天気でした。「にんげん学」京都講座本年最後の講座も無事に終え、爽やかな一日、今朝は雨、冬空に戻ったようです。
論語・子罕篇」にこのような条があります。
「子曰く、譬えば山を為(つく)るが如し。未だ一簣(き)を成さざるも、止むは吾が止む也。譬えば地を平らかにするが如し。一簣を覆(おお)うと雖(いえど)も、進は吾が往(ゆ)く也。」
意は「孔子言う、人が学を修め徳を積んで行く姿は、たとえば土を盛り上げて山を造るようなものである。いま一簣(一もっこ)の土を積み重ねれば山が出来ると言うところで仕事を中止したとすれば、それは自分が止めたのであって、その止めた責任は己自身ににある。又たとえれば、でこぼこの土地を平らにならすようなものでもある。くぼんだ土地に僅か一簣(ひともっこ)でも土をくつがえせば、それだけその仕事に進んだことであって、この場合も、自分自身の意志によって進んだのである。」
当に人生はこの通りでありましょう、この条は私にとっては非常に「勇気づけられる語」です。
何事も自分自身の意志により退くも進もあるのです。他人の意志によるのではないのです。自分を進化させるための学や徳を積む工夫は、自分の責任なのです。
人生の未来は自分自身が決定し歩むことにあり、止めるも進も自分です。頭の中では色々と考えてはいるのだが何事も変化しないというのは、行動がないからです。人生は誰の人生でもありません、自分の人生です。
行動がないということはこの事すら分かっていないのかも知れません、ただ時間だけが過ぎ、年も重ねていく、しかし現実に何ら変化がない、努力は口だけでは駄目なのです。
行動はなくとも現実の楽しさはいくらでもあります、そこに停止してしまう自分のあることを知らねばなりません。
同僚との会話や友達とのお付き合い、遊び等々、周囲の変化はいくらでもありながら、「充実感、満足感がない」、ただ時間だけが過ぎていき、何かしら不満はある、というのは全て目標に対する行動の無さから来る不満なのです。それは自分自身に対する不満といっても良いでしょう。
人生を生き生きと輝かせるのは「正しい道理を知り行動する」ことにあります。
道理を知れば心が柔軟になり、人の評価などは二の次となり、協調性が生まれ多くの「活躍の場が与えられ」、一層自分の人生を迷わずに進み輝くのです。
「学ぶことはまねぶ」ことで、人生は「セルフイメージ」が大事です。潜在能力を開花させるには何が一番かと言えば「刷り込み」です、「学習」です。それが「まねぶ」ことなのです。
私は人との競争を止めて「刷り込み」を生涯続け「学と徳との積み上げ」を「イメージして」行動しているのです。
やってみなければ分からないなどという愚かを私はしておりません、確実な「お手本があります」それが先人であるお釈迦様であり伝教大師であり、孔子なのです、偉人を「真似て」いるだけなのです。
ただ真似ているのではなく、真似ていればこそ「真実の自分と出会う」のです、そのことに自信を持っております、迷う道理がないのです。
楽しみだけです。
 
世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。     合掌