師を思い出す時期

おはようございます。

今朝も冷え込んでおります、昨夜の「にんげん学」大阪講座ご参加の皆さんありがとうございました。
来たる年も大いに学び共に励みましょう、お体大切に良い年をお迎え下さい。
12月の今頃になりますと思い出します、比叡山に入山したときのことです。世間が慌ただしくなったこの時期に私は東京から一度故郷の山形に帰り寒さの中新たな人生へと旅立ちました。
19才の春に東京出て冬再び比叡山への旅立ちこの年に二度目の出直しでした。
それ以来度々出直しをしているような気もします。自分の将来を見据えての進路変更、両親は色々助言をしてはくれましたが、結果的に物理的援助の出来ない両親は息子の進路に納得はしないままに賛成してくれたようにも今は考えられます。
「がんばれよ」の声を背中で聞き、希望と不安が入り交じった気持ちで叡山へ、あっという間に日が落ちる夕刻に入山しました。
二度と進路を変えたくないという気持ちで十余年を過ごしたようにも思われます。感謝ばかりが頭をよぎります。
自分の夢ばかりしか考えていなかった者をよくぞ養ってくれたと、師の偉大さを今更ながら思います。
それ以来私も師に見習って弟子も修行に来てくださる方も我が子と思い接しております。
どんな子でも子は見棄てるわけにはいきません、「見守る」しかないのです。共に悩み、共に歩み進しか方法はありません。
師の歩み方に接し思ったことは「自分を創る」ということでした。「人を作る」のではなく、自分を創るのです。それが師弟であり親子であるということでしょう。
精一杯生きていれば「不足など言えない」のです。修行というある意味では世間から離れているから出来るということはあるかもしれませんが、特殊なことではないと思っております。
家庭でも、社会でも個々違った生活習慣があるはずです、その根底に流れている精神が大事なのではないでしょうか。
人を作る前に己を作るという「精神」です。目指す世界へ真摯に立ち向かう姿、言葉、会話です。
「共にある」ということ「師弟・親子」全て同じではないかと思うのです。親は親、子供は子供ではなく、親子で一対でありましょう。
人導くことは難しいかも知れませんが、己を導くことで人を導くことを一番に教えていただいたように考えております。
この時期を迎えますといつも師の教えに反してはいないかを反省するのです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。       合掌