こころ

おはようございます。

昨日はとても良いお天気で、今朝は雲っており地面が濡れて夜中に雨が降ったようですが、気分は爽快です。
毎朝誰もいないお堂で読経をしてもう三十年になります、この孤独感が好きです。この孤独感があればこそ人が好きなのかも知れないといつも思っております。
一人は寂しいものですが、この寂しさを感じなければ人のありがたさ、素晴らしさ、大切さを感じられないのではとも思っております。
また目に見えない「神仏をいると思って拝む」この気持ちが好きなのかも知れません、見えないものの中の特筆は「こころ」です。この見ることの出来ない心を私は「人を信じる心として心」を見ております。「自分が信じる心」を「人様も持っている」と「信じている」のです。
「自分の思い通りにならずとも」信じられるのです、自分が信じているからです。人は人の心を信じなくなれば人ではないでしょう。意見の違いは当然のこととしてあります。そこで人様と衝突してはならないのです、先ず「信じる」ことです、なんで「わからないの」とは相手に対しては思わないことです。
信じる、愛することがなければ「歩み寄り」はないからです。「理解し合う」というのは「歩み寄る」事から始まるのであって、「事の理解」から「理解し合うのではない」のです。
丸は丸、四角は四角、三角は三角として「認める」ことが人との「和合」では大事なことです。それが「信じる」ことであると実践しています。
そうしますと如何に人様が「自分にないものを持っている」素晴らしさが見えて楽しさとなるのです。これほど楽しく愉快なことはありません。
お茶を飲む一つにしてもお茶葉だけではあの美味しいお茶を飲むことは出来ないのです、水が必要であり、水を沸かす火もヤカンも必要、急須もお湯飲みも色々な物があってお茶の素晴らしさが出るのです。
お茶葉一つではお茶にはならないのです。
人も同じように人となるには「人の存在」が大きいのです、それを知れば「こころ」がいかに大切かを知っていただけるのではないでしょうか。
これから今朝も一人御仏に向かって祈りを捧げます。皆様もどうぞ自分の心を大事にすると同様に人様の心を大切にしてください。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌