学び思う

おはようございます。

昨日は今年初の東京、新幹線に乗る前に病院に行って注射、新しい治療法でこれから自分で週に二度皮下注射しなければならないためにレッスンしながら打ってきました、注射は大嫌いなのですが、好きなものはなかなか来ませんが、嫌いなものはやってくるようです。
ユックリと休ませて貰い7時前に目覚め書きはじめました、良いお天気のようです、秋葉原の駅前を窓から眺めますとこの時間は未だ人も少なく東京という雰囲気の混雑ではありません。もう少しすると人並みが溢れるのでしょう。
「にんげん学」東京講座、本年初講座、ご出席の皆さんありがとうございました。本年もどうぞ「心学」をご一緒に学び社会を明るくしていきましょう。学びは情熱です、情熱を失ったとき人生は悩みしか残っておりません。
堂々巡りをしていながら何も行動しないということは良くありません、悩むということは、考えているということではありません、そこで停止している状態なのです。本当に夢や目標を持っている人は必ず尋ねます、尋ねる人は教えられますと行動します。
ところが悩み、堂々巡りをする人は尋ねず、尋ねても行動がないのです。それはどこかに「間違っていない」という意識があるからです、考えを通して行動し、そして結果ですから、結果が違っておれば、プロセスのどこかで間違いを生じているのだと考えればいいのですが、考えられない。
人は間違いを起こすときもあれば、失敗をするときもあるのです、その時に大事なのは人生に対する正しい情熱です。
論語、為政第二に「子曰く、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」とあります、    
意は、「孔子言う、或いは先輩について学び、或いは書物によって学んでも、その学んだところを自分の心に問うてよく考えてみないと、学んだことがぼんやりとしていて、本当の意味は了得されない。これに反して、自分の乏しい知識経験を本としてただ心の中に思い詰めるだけで、ひろく他人に学び、或いは古人の教えに学ぶことをしないと、的をはずれた方向に進みがちで、危険この上ないものである。」
このことは個人の修養においても、ある時代の国民の修養としても大切な心がけであります。色々のことを聞き知り見知っておりながら、そのことが真の知識ともならず実行にも至らないのは、思わざるの罪であり。せまい思想の殻に閉じこめられて、ややもすると常軌をはずれた行いをなすに至るのは、学ばざる罪であります。
学ぶことは方向を示すのに役立ちますが、それだけでは力に乏しいのです。思うだけで学ぶことを知りませんと、ともすると、的をはずれた強い過ちを犯すようになるのです。
私たちが情熱を持ちながら途中で放棄すると言うことは学ぶことを棄てるということでもあるのです。
これからも学び問う事を常とするようでありたいですね。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌