我を張らない

おはようございます。

昨日上山温泉から9時過ぎに友人に送ってもらい実家へ、直ぐに小学校時代の同級生が奥様と共に訪ねてくれてお昼過ぎまで歓談して楽しい時間を過ごすことができました。
一昨日、昨日と私のために時間を割いて会いに来てくれた友人、ありがたい、この一言です、喜びの気持ちはありがたいという言葉以上ですが、言葉で表せばこの言葉しかありません。
今朝は実家での目覚め、実家は最上三十三観音霊場札所、第八番の札所になっており、早朝からお参りがあります。心華寺や愛宕寺と違って歴史は延暦寺より古く今日まで観音信仰の霊場として広く信仰を集めております。
布団の中で鐘の音を聞く、実家ではならのことです、昨夜は近くに住んでいる姉や甥、姪が子供達を連れにぎやかに楽しく歓待してくれました、実家はいいものです。
「ふるさとは遠きにありて思うもの」帰ってくるまではこの言葉通りであり、帰ってきて又帰らなければならないため一入の実感を味わっております。
私は末っ子でありとても甘えん坊の子供でした、その上勉強が出来ないという手のかかる末っ子です。
甘えん坊は今でも変わってはおりませんが、甘えん坊特有の「わがまま」が今日兄弟の中で一人遠くで生活するようになった本ではないかと思っております。
甘えたですから、みんなの力を借りなければ何一つ出来ないくせに、甘えさせてくれるのを良いことにして「我を張る」、我を張って取り返しがつかなくなる、そんなことのくり返しでした。
我を張ることは時としては必要ですが、やはり「我はよくありません」、引っ込みがつかず、取り返しがつかない状況を引き起こすからです。皆さんも「我を張る」ことはよくよく戒めなければなりません。
我を張るとは「強情」という言葉に言い換えても良いのではないでしょうか。
人生、物事を上手く運び、思ったことを実現することが大事なことは皆さんもよくご存じのことです。「強情な人」や「我を張る人」は現実の自分を適確に判断していないということが多いのです。
何故そのようなことが分かるかと言いますと、やはり「我が強い」からです、人から何か指摘されたり、指示されたりしますと、自分の能力の無さや、欠点を知られたくないという思いが強い余りに、「反論」するのです。
この感情からの「反論が良くない」のです、客観的でなく、何ら論理的でもないからです。単なる「言葉への反発」なのです。
強情と情熱を取り違えてはなりません、情熱はどのような反論にあっても客観的思考、論理的思考出来ることです。強情はただ言葉への反論が多いのです。
実力がないくせに夢を語る、現実が出来ていないから一層大きなことをいう、兄弟や親、身近な人間は実力を分かっているから戒める、だが戒めを聞かないで「我を張る」、これまでの私の経験体験が蘇り、誕生日の前に大いに反省する里帰りでもありました。
「知・仁・勇」この三つは「三達徳」といわれております、何事にも達するにはしっかりと学び知ること、その上に仁という思いやりを持って人に対すること、そして学問に実践に勇気を持って対することが肝要なのです。
ただ単に「強情」で我を張って対しても物事の成功はおぼつかないことを肝に銘じたいものです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌