あの人もこの人も

おはようございます。

昨日は一日中雨、そんな中皆さんとご一緒に祈りを捧げた楽しい一日でした、足元の悪い中お出で頂いたとても嬉しい思いです。護摩の炎は全ての執着を焼き尽くしてくれます。名誉、孤独、富、貧しさ、健康、病、全てです。そしてまた「一からやり直す」気持ちの中はいつも晴れ晴れ。
皆さんと一緒にといっても皆が同じ気持ちというわけではありません、それぞれがそれぞれの思いを持った中で祈る、そのことが「励み」になるのです。そのことが「共感」にもなるのです。
「自分の気持ちを分かって欲しい」という気持ちは当然人として抱く気持ちです、ですがそれは「難しい」ことです。難しいことですが、「祈り」を日常に持ちますと「共鳴・共感となる」のです。
人様の気持ちは理解できずとも、それに「近い気持ちは持てる」。「あぁあの人もがんばっている、この人も」といった具合に「中らずと雖も遠からず」です。
そうしますと「自分の気持ちを分かって欲しいという気持ちよりも」、「あの人も、この人も」といった具合に「理解が出来ていって」その中から「自分の気持ちをという気持ちが薄れ」、「心を迷わすことなく」自分の人生を「精進」していけるようになるのです。
人に優しくなれる、人様へ対して理解が出来るようになれる、共に在れるようになる、一緒にということはこういう事ではないかと思うのです。
人様は自分の良い評価を得るための道具ではありません、又自身が何かに衝突したら「やり直せばいいだけ」なのです。それを人様の所為とするのではなく、「改める」ことこそが大事なのです。
何事も行動するときには「よかれ」と思ってするわけです、それが周囲に良くなければ「改める」ことがこれまた「一緒に」ということです。
人は人様に理解を求めようとしたときから「悩みとなる」のです。それよりも人様を「理解しようと」したときに「覚り」となることを知るべきではないでしょうか。その事を私は「仏の慈悲」から学んだのです。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌