人生に志を

おはようございます。

昨日も肌寒く雨が時折降るという一日でしたが170名の若者達が入山したせいかお寺は熱気に包まれております。フレッシュマンはいいですね、こちらまでエネルギーを充電できます、感謝。
人生に「志」を持って欲しいと皆さんに常々願っております、特に若い人たちには。志とは人として「こうありたい」というものであって、金銭的なものや又地位や名誉を得るということではありません、「人として、どうあるか」ということであります。
論語「陽貨篇」にこのような条があります「子曰く、鄙夫(ひふ)は与(とも)に君に事(つこ)う可けんや。其の未だ之れを得ざるや、之れを得んことを患う。既に之れを得れば、之れを失わんことを患う。苟(いやし)くも之れを失わんことを患うれば、至らざる所無し。」
意は「孔子言う、志卑しく理想を持たぬ人間(鄙夫)は、この人と一緒に君につかえることは出来ない。何となれば、鄙夫は地位なり或いは貨利なりを手に入れない間は、いかにしたならこの地位なり貨利なりが得られるかにひたすら心を砕く。すでにしてその欲した地位なり貨利なりを得てしまうと、今度はこれを失っては困ると、ただその事だけを心配する。かくの如くして、仮にもすでに得たものを失うことを心配する気持ちになって来れば、それから先は、その得ているものを失わざらんがためには、いかなる手段をも辞せず、これを敢えてするであろうからである。」
人生を破滅に追い込んだり、会社を倒産の憂き目に遭わせたりする大きな原因に「志の欠落」があります。私たちは多くの人と共に在ります、一人の罪が多くの人を不幸にするということは昨日の長崎市長銃撃事件でもよくおわかりのハズです。
これらは全て「志の無さ」から来るものです、野球の金銭授与の不祥事、不二家問題等皆この類です。
志のない人間とは共に働くことが出来ず、また働くということも、自分の能力さえも自ら閉ざしてしまうということでもあります。
「人として」という志を持てば生涯に於いて活躍する場を私たちは授かるのです。大いに誇りを持って堂々と人生を歩んで欲しいと願って若者達にお話しさせて頂いております。
また被害に遭う不幸、加害者になる不幸を防ぐために「心学」、心を学ぶことの大切さがこの度の事件でも感じます、どうぞ皆さん「にんげん学」にお友達をお誘いしてください、そして力ではなく「学ぶ心が争いを無くす」ことに通じることを知ってほしいと願っております。
何かに突き当たることは必ず人生にはあります、その時に「学ぶことを失わなければ」人生は「切り開かれる」のだということに「気づいて欲しい」のです。
自暴自棄になり、自己破壊に陥らないためにも、自殺を考えることも同じであり、これも又犯罪であります。
人ごととは考えずに「一言声をかける勇気を持って欲しい」と願っております。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。      合掌