足るを知れば辱められず

おはようございます。

今日は立夏です、夜半から降りだした雨が降っております。窓を開けているのですが寒さは感じず湿り気もちょうど良い感じです。
昨日は子供の日でした、子供時代の思いではやはり食べ物、飢えていた時代だったのでしょう、今までも何度も書きましたが〝おいなりさん〟を母親が作ってくれるのが一番の楽しみでした、ただそれだけでしたがそれがとても待ち遠しく、何時までも忘れることの出来ない想い出です。
今の時代では考えられないことです、このようなことがとても大きな喜びと楽しみと感じられたことが幸せだと今は考えております。
飢えを味わったお陰で多くのことに接する度に喜びを感じ、夢と希望の持てる自分が作られたと感謝しております。
物事を考えたり、思ったりすることでふと心に感じたことがあります、「事が成らないからこそ純粋に考えられ、物事に感動する」ということです。
現実の素晴らしい人と接したり、テレビドラマを見ていたり、書物を読んでいるとき、自分が現実に実現していないからこそ涙したり、感動を覚えるのだということです。
老子に「足るを知れば辱められず」という言葉があります。私にとって勇気と希望を与えてくれる言葉です、昨日書きました「恵まれた」、そうこの言葉は私にとって天からの恵みです。
人は人と比べて足りないことを恥ずかしがる必要はありません、恥ずかしいのはそれを認めようとしないことです。自分を自分で認めないから人から辱めを受けるようになるのです。
物事に対すれば自分が出来ていないこと、知らないことが、持っていないことをどんどんと増え知らされます、この事は「学ぶことに気づかせていただいた」のです。
金銭や物質、地位を嘆くような愚かな人間であってはならないでしょう。そのようなことで悩むようであってはならないのです。
「あぁ結構や、ありがたいことや」と「足るを知って」学ぶことではないでしょうか、そうすれば必然的に己が何も持たないことに気落ちせず、学ぶという堂々とした「謙虚」な自分が確立し、人に恥ずかしいと思う気持ちもなく、又辱められることもなく、鯉のぼりのようにスイスイと大空を泳ぐように歩み生きられるのです。
鯉のぼりは腹の中に何物もためない故に泳ぐことが出来るのです。子供達が鯉のぼりのようにスイスイと大空を泳ぐようにして行くには大人である私たちが苦楽に囚われず潔い生き様を見せることではないかと思っております。
今日は午前10時から「月例幸福護摩祈願祭」です、是非お参り下さい、お待ち致しております。
大きな声で祈ることで心がスッキリとリフレッシュする自分を味わいましょう、気分爽快になりますよ。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。   合掌