報恩登山

おはようございます。

昨日は父の日、お父さんに感謝されましたか、当然のことを言いまして失礼しました。
今日はあいにくの雨ですが比叡山に信者さんとご一緒に報恩登山、結縁潅頂に参ります。不滅の法灯をご分灯いただいて10年間毎年行っております。
恩は与えてくれた方は忘れても受けた方は忘れてはなりません、感謝の行動とはそうあるべきです。
今日在るのは先ず親の恩、家族の恩、社会の恩、師の恩、友の恩さまざまですが、沢山の方にご指導いただいたお陰です、常々このように私は説いております。ですから率先して行動するということです。
喉元過ぎれば熱さを忘れるではいけません、気づきを得たならば「得た」そのことを忘れない「初心忘るべからず」でしょう。その上に何事も築いていくのだと考えるのは私一人ではないのではないでしょうか。
今日の世相の乱れは「忘恩」から来る行為を感じてなりません。やはりマナーの欠落です。「情」を自分が欲しいと願うときばかり望む人が多くなった結果であり、いわゆる「わがまま」なのです。
誰しも自由は欲しいのです、しかし自由が最も「不自由をもたらすもの」だということに気づくべきです。事を始めますと不自由を感じるのが当たり前、始めはやりにくく、下手であり、覚えることもままなりません、この不自由を味わったときにこそ何で不自由さを味わっているのかを知るべきです。それは目標達成のために始めた結果の不自由だということです。
「自由とわがままを混同している」のです。自由とは本来「摂理に従う、由縁に従う」ことが「自由」なのです。型、摂理に従ってこその自由の価値があるのです。何事も型に嵌めなければ形にならないのです。わがまま気ままにして何も出来ない「がんじがらめ」になるようでは自由とは言わないのです。
摂理、法則に従うことこそが自由に気楽に安心して日々を過ごすことが可能となるのです。恩を受けたら「恩返し」をする、一見不自由なように見えますが、これほど自由なことはありません。
人の目を気にせずに歩めるのです、それも暖かい眼差しで受け入れられる、それは真理を信じて不自由を体験し、事を為したからこその信頼が得られるからです。
自由気ままにしておりますと他人様の目が刺すように、射るような眼差しとなり、公的な場所も、明るい場所も堂々と歩むことが出来なくなり、常に言い訳をしなければならないというお粗末な人生となるのです。
情ほど嬉しくもあり又ある意味では面倒なことはないのです、だからこそ面倒にせず素直に情を受けお返しをするという事であれば何の面倒もなくなるのです。
誰しも面倒だと思っているからこそ恩返しをすれば大いに受け入れてくれます。何事もそうですが、心がけとしてやっておれば最初は面倒なことでも何でもないこととなるのです。
皆さんと共に比叡山根本中堂で御礼参拝の読経をし、その後皆さんには天台座主猊下直々に結縁潅頂をいただき、法話をちょうだいします。
そして私が修行をしました無動寺谷に行き、現在千日回峯600日目真っ最中の行者さんのお話もお聞きします、これは得難いことです。
今年ご参加いただけなかった皆さん是非来年はご一緒しましょう。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。   合掌

*月末の予定

6月24日 「月例幸福護摩祈願祭」 下関・愛宕寺 午前10時
  26日 「にんげん学』小倉講座  午後6時半受付
以上です、皆様のご参加をお待ち致しております。       再拝