師にお会いして

おはようございます。

昨日久しぶりに師匠が善光寺より叡山へ帰っておられるということでご挨拶に伺ってきました、残暑見舞いと自身の緊張感を求めてのことです。
師匠と対面をしまして何が再確認ができるかといますとやはり「初心・礼節・態度・言葉遣い」です。「親しき仲にも礼儀あり」、人は親しくなって「争いを起こし」ます。
「判ってくれるだろうという思いこみ」から来る「意識と行動のずれ」です。言葉を換えれば「行儀が悪くなる」ということでもあります。
師匠は親以上に甘やかしてくださいました。何から何まで許してくださった上でのご指導をいただいたということです。人は欠点と長所どちらが多いのでしょう、もちろん「欠点です」、そのことを承知の上でご指導くださったのです。
直接ご指導いただいているときには満点までとはいかなくとも及第点で独り立ちを許してくださいました、「あとは実践で学べと」いうことです。「世間様が教えてくださる」、という「世間様への信頼の上」でです。ありがたいことです。
「わずかな長所を見て育ててくださった」ことに私は感謝しております。自分のことを棚上げして言うのも何ですが、周囲を見渡しますと欠点など無い、と考えておられる人が存外に多いのではないでしょうか。だからこそ一人前になったと勘違いして「世間をなめる・礼儀を失う」のではと思っております。
今話題になっています大相撲の世界ばかりではありません、親は選ぶことはできませんが「師は選ぶことができます」、その上で師として「教えを仰いだのです」、私はこのように考えております。
ところが一人前になった感謝を忘れて「善言耳に痛し」で、耳障りの悪い言葉を聞けば「言い返す、反論する」、反論は悪いことではありませんが、一考することは大切です。慢心からは成長、進化は無いからです。
横綱となったらあとは引退しかありません、後はないのです。一層真摯に「人生の道を考えるべき」なのです。
高いところから下を見れば遠いところまで見渡すことが可能です。故に何故地位という物があるのかという道理も理解されるはずなのです。
地位が上がって、もし耳の痛い言葉を聞いて広く世間を見渡すことができているにもかかわらず目先に心を奪われているというようなことであれば、それは視界が広がっておらず、ただ強い、というだけのことでそれは子供のようなものでありましょう。
「道」として多くの人が歩んでいけるようになったのには「継承者」があればこそです。「あのようになりたい」という憧れからです。それは「先人の存在」があればこそなのです。人様との応対・対応はどのような立場となっても大切な事だということを師匠にお会いして再確認して参りました。
又私たちは継承者であると同時に後輩たちへの「お手本」であるべきなのです、このことは誰が認知、承知していなくとも人として誇りを持って自覚して歩むべきだと思っております。
強いから、上に立つからではなく「人として」の誇りです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌