運をつかむ

おはようございます。

秋のお彼岸の入りの昨日、愛宕寺で皆さんとご一緒にご先祖様への追善のお経をお唱えしました、ありがたく嬉しい、ほのぼのとした一日でした。
見ることの出来ない世界への感謝、行動、このことは本当に自分の心無くしては行動とはなりません。
信仰している方が成功を収めることの理由がここにあるということを改めて確認した昨日でした。
よく「運をつかむ」ということをいいますが、この運をつかむことは「決めたら大胆に行動」ということでもあります。
信仰している人は「教えを疑いません」、
疑いませんから「大胆に行動ができる」のです。行動に迷いがない。
不安を持って行動する人、教えを疑っている人は行動の時どこかに「覇気を感じない」のです。これは筆舌では表せません。「感じる」のです。
信仰者はこれとは逆に「信を基に」していますから、行動に「てらい、迷い」がありません、故に「覇気を感じ」人の心を動かす結果となるのです。
未来はどこまで行っても未来です、結果は出なければ分からないのが道理です、では「結果の出る前にどのような人を信じるか」と言えば、
「覇気を持った人」です。「迷っている人ではない」のです、この「感じ」が大きく「人生を左右していく」のです。
祈り事の出来る人はまず「自分の心に迷いがない」、迷いがないから「信じる」、信じれば行動も「確信を持ってする」のです。
祈ることの出来ない人は、疑いを自分に持っている、信じることの出来ない人は、結果が悪ければ「人のせいにする」のです、このことは実は最初に自分の心を信じてはいないのです。
「心がまっすぐに目標に向いていない」といってもよいでしょう。自分の心の内に「やり遂げる」という固い「信念がない」のです。
固い信念がありますと成功を導こうという「祈り」にもなるのです。祈りという行為は不安定な「心を統一」するためでもあるのです。
祈れる人は不安定な心を知っていると言ってもいいでしょう。日々の祈りが「強い意志力となる」こともまた知っているのです。
自信はどこから来るのでしょう、それは日々の修練、繰り返しからです、
成功を願いながら未来に不安を持ち、行動もせずに結果に心を奪われ、心騒がせて茫然自失状態で日々を過ごし、失敗の修練をするのではなく、
確固たる未来を描いて「祈り大胆に行動」することこそが成功に達成することを知るべきです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌