思いやりを学ぶ

おはようございます。

昨日は二十四節気寒露、露ではなく雨でしたがこれからは少しずつ冷たさが増していくのでしょう。
「にんげん学」京都講座、ご出席皆さんありがとうございました。来月もよろしくご参加下さい。
論語も終わり、来月からいよいよ四書の最後「孟子」に入ります、楽しみにしていて下さい。
明日は「にんげん学」一宮講座、一宮地区の皆さんお友達をお誘いの上待っていて下さい、楽しみにまいります。
昨日の新聞に小学一年生から中学生までの「うつ病」が多いとの記事がありました。「にんげん学」の大切さをひしひしと実感し心を痛めております。
子供は「無邪気」であるべきです、無邪気で在るべき時機に「枠に閉じこめる、可能性に蓋をする」、これは教育とはいえません。
町には自由な遊び場もない、豊かな発想や、思い、情緒を醸し出すときに限られた「場所」しか与えられない、
国はお金があるはずです、遊び場くらい作れるはず。
お金を払って遊びに行く遊園地はあるでしょう、しかしそれらは皆作り物です、自然な空間ではなく、発想して遊ぶという、心の遊びがない。
環境や現実に不平をいってもどうしようもありません、ではどうするかといえば、やはり「心の学」での自由です。
祈る、心の学びをすることでの「心の自由を得る」ことに大人は目を向けるべきです。
真に子供たちへ愛情を持っているのなら「何が愛情かを知るべき」です。
時代が違うという意見もあるでしょう、そうでしょうか、
違います、人には「個性」があるのです。違いがあることをしっかりと「知るべき」なのです。
上に立つ、お金を持つ、どのくらいですか?、答えられますか?答えられないでしょう。不安を持って生きることを教えるのではなく、安心して暮らすことを教えるべきなのです。
働くことはどんな地位にあっても働くことに違いはないのです、そこで「誇り高く暮らすこと」です。
安心は「お金でもなく、地位でもない」のです。「心の中にこそ在る」のです。
このことを親が大人が「確かに」することで子供たちを迷わすことを少なくするのです。
私は学校生活の時代には成績も悪く、現在も地位もお金もありません、しかし働くことに使命を持って誇り高く暮らしております。
私の親は不出来な子に嘆くときもありましたが、存在を認めておりました、師も不出来を嘆いてくれましたが、存在を認めて下さったのです。
人格を否定してくれなかったということです、ナゼでしょう、親であり、師であったからです。
真実の愛情だったのです。
今日のような子供を点数で計るようなことを誰が為したのでありましょう、大人です、多数の者が「思いやり」に心を傾ければ世の中は変わるのです。
素晴らしい思いやりの社会を作っていくためにご一緒に学んで下さい。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌