存在を認める

おはようございます。

昨日は爽やかな秋晴れ、一宮から愛車で帰るとき車窓から眺める田圃も刈り入れで所々市松模様、実りの秋を楽しく感じ帰ってきました。
雲にも色々な形があり、何か意識を持って変化しているのではとも思われ自然のありがたさに感謝です。
身近な楽しみ、ささやかな楽しみ、人様から見れば何ということもない楽しみ、それが大切です。
ささやかなことに楽しみを見いだしますと、「人の価値観、楽しみ」にも理解ができる、「存在」を認めることが出来ます。
人が人と出会って長くそのおつきあいが出来ることの一つは、何気ない事へのこだわりが人にはあるのだという理解、思考です。
私たちはどうしても人様に理解して欲しいという意識があります、私は人様を理解することの難しさを知っておりますので、「存在を認める」という「思い」を持っております。
それぞれに人には価値観があります、価値観を認めるということです。このことは「同調ではありません」、認めるのです。
たとえば「丸は丸、四角は四角、三角は三角」といったようにです。
形や物であれば認めるしかありません、「心、価値観も同じだ」という考え方です。
そうすることで「対応」がハッキリするのです。おかしな例えですが、塩は塩として用いるのと同じです。
ところが人は親しくなればなるほど互いが「理解したような錯覚、思いこみが強く」なるのです、これは情ともいえますが、間違いの本、苦しみの本となるのです。
存在を認めることと理解することは違いますが、私は「同義語」として遣っております。そうすることで、人様に対して無理強いをしない自分、人様への対応も「口先だけの安易な約束をしない」ようにもなるのです。
また相手が何を要求しているのかがしっかりと分かるようにもなるのです。ナゼかといいますと、存在=行動でもあり、行動は「心を表している」のでその人の理解にもなるからです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌