指導

おはようございます。

今夜は「にんげん学」大阪講座、明晩は一宮講座、沢山のご参加をお待ちいたしております。
名古屋からの青年が帰り、月初めから四国八幡浜から一人の青年が来て修業に取り組んでいます。
お寺での日課は決めてありますが、事立てて指導、教えるということはありません、「気づき、工夫、発想、まねぶ」を大事にするからです、質問は大いに受けます。先ず体験というのが修業の基本です。
体験して出来不出来を自身が実感し、そして指導を仰ぐ、ということです。人はプライドを持っております、尋ねないのに指導しますと、プライドと勘違いしている「我が頭をもたげる」ことを危惧するからです。
「小さな親切大きな迷惑」です。だから尋ねることを「待つ」のです。指導や、教えることを体験もしない前に先にやってしまいますと、失敗もしていませんし、行っていることもまだ分かっておらず、理解できないことの方が多いからです。
最も悪いのはアドバイスと批判を混同してとられる、ということです。そうしますと「心が離れる」という一番始末の悪い状況が生まれるのです。
人生は誰のためでもなく、「自身のためにあります」このことを指導者、上司の方は十分に理解していなければなりません。
修業も仕事も私のためにやっているのではなく、本人自身のためです。だから「じっと相手を観る」そして尋ねられれば答えるということです。
何事も人のためにやることは続きません、人のため、とは響きの良い言葉ですが、本当に人のために出来るかといえば?で難しいことです。正直の話、それよりも互いが「サポートし合う」事の方がスムーズに事が達せられるのです。
人のためといって仕事を押しつける、嫌なことをさせる、偽造品を売りつける等々今日の世相はそれを物語っております。
真に人のことを思っているのなら口などには出さないのです。
プライドが真のプライド、誤ったことをしない、迷惑をかけるようなことはしない、仕事は率先して行う、というプライドに目覚めてもらえればということです。
我とプライドを混同するような意識を持たせないというのも指導する者は気づくべきです。
どんなに会社の和を願って、良い言葉を発しても和が保てない原因が「プライドと我の混同が招いた結果だ」ということもあるのかもしれません。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌