道具となって

おはようございます。

現在二名の短期研修生がおります。先日二人にこのような話をしました。
師匠に先日お会いしたからかもしれません、比叡山での私の修業姿勢です。「物になる・道具となる」という話です。
よくこんなことを言う方があります、「人間は道具ではない、物ではない」、その通り私も同感です。孔子も「君子は器にあらず」ともいってます。
道具になるといった意味は「使いやすい人間となる」という意味です。
使いやすい道具、使いやすい人間、これは誰しも望むところでしょう。私も弟子にはこのようにあって欲しいと願っています、が自分がそうであるから人もというわけにはいきません、それは押しつけです。
人は自覚がなければ駄目なのです。
しかし私は「道具になろうと決心した」。
物事を二元的に見ることはよくありませんが、自分を観るときには必要です。「出来るか、出来ないか」、「知っているか、知らないか」等々です。
悲観的に物事を考えるのではなく、私は自身の向上を願って自分に対して二元的に物を観ようとしたのです。
出来るか、出来ないかです。
よくよく自分を観ますと「出来ない、出来ていない」と見極めました。
昨日の何故と同じで、ナゼできないのか、です。答えは「未熟」と出ました。何故未熟かとまた自問です。「学問が足りない修練が足りない」と答えが出ました。
ではどうするか、学ぼう、修練しよう、です。
学んでいるとき、修練しているときは「学びと、修練に没頭する」という結論です。そこには「社会的評価、報償は願わない」ということでもあります。
「物は物喜びをしません。道具も道具喜びをしません」、喜ぶのは「物、道具を使う人」です。学び、修練することで、「人様に喜んでもらおう」との修業姿勢をとったのです。
このような話をしました。
あくまでもこれは私の価値観ですから、押しつける気もありません、ただ人は自分の考えによって進化していくことには間違いはないのです。
学びや、修業は結局は自分の進化を計ることです。そして自分を社会に大いに活かすことだと考えます。
あれもこれも知ることは不可能ですが、先ず自分の知らないこと、出来ていないことを明確にし、人並みになろうと考え、「主体性を持って」道具として、物としての修業時代を過ごし、結果多くの方の言葉をいただいたと振り返ってみて思うのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌