志を変えず

おはようございます。

昨日は食べ物の話を書きましたが続編、本当に30年前比叡山から下山した当時は一食もままにならない数年を体験していました。
御仏と師の教えがあったために平常心を失うことなく過ごすことが出来たのです。「志」というものを確固たるものとできていたからです。
物やお金の不足、生活の貧苦で「志を変えてはならない」ということです。大仰なことを言うつもりはありませんが、貧苦など「自分の身の処し方で解決出来る」ことで志を変えるようでは志ではないということです。
食べられない、物がない、お金がないという世界は自分の処し方で何とかなる世界です、その何とかなる世界で困るようでは「何事も貫け」ません。ましてや人と関わり合って生きていく社会の中では到底無理な話です。
学問でも、修業でも、経営でも、何かを目指すことの世界全てに共通する心の持ち方です。
何かを志すのは自分。何ら人と相談して決めることでないのが「決意・志」です。自分で決めたことを何か困難が生じたから止めるなどというのは志とは言いません。
志を達成するにはがむしゃらにやればいいのかといえば、そうではなく、志とは達成するのではなく「保ち続ける理念」なのです。
志とは「生涯やり通すこと」といってもいいでしょう。ですから困難なこと、どのような試練でも続けられるのです。
では何故志を持ちながら途中で進路を変える人が出るのでしょう?。それは志の意味を取り違えているからです。実現するもの、成果を上げるもの、結果を出すもの等々のように考えているからです。
「こう生きるぞ〜」というのが志であって、「このような結果を出すぞ〜ということではない」ことを正しく認識すべきです。
こう生きるぞ〜と私は志を立てましたから、どのような困難が生じても現実に困っていても、「心中では悩むことはなかった」、ぶれることがなかったのです。
飢えていても、寒さに震えていても、お金に不自由していてもです。
困れば困るほど心が熱くたぎるのを覚えました。このようにして天が私の志を鍛えてくれているのだと、そのたびに強く思ったのです(少し格好良すぎますが、事実です)。
事を目指して直ぐにならないから放棄するなどということは「世間を人様をなめている」のだと。
世間の人はありがたく親切で愛情深い方ばかりです。食べられないからといって食べ物を布施してくださった、寒さに震えているのを見て暖房器具を布施して下された、座布団がないといっては布施して下された、もったいないことです。
自分で自分を通しているだけなのに、人様は我がこととして私を見て下された、私にとって「御仏の道、師の道を教えてくれたのが信者さんでした」、布施を慈悲を説いている私が慈悲、布施を教えられたのです。
「志とは生涯を通して貫くもの」です。そのプロセスの中で私は多くの喜びと志を通して働く「場を」与えられたのです。
どのような困難なことがあっても卑屈にならず、人を疑うこともなかったのは「志と人様の愛情があった」からです。
豊かさがあって豊かさを知ったのではなく、貧しさの中にあって豊かさを知ったのです。
志と人様の愛情が貧しさを感じさせなかったのだと、冬の寒さの中で人様の愛情に感謝し思い出しております。
皆さんも是非志を本にお仕事をしてください、さすればその時、その時において大きな喜びがもたらされるのです、私は信じて歩んでいます。
明晩は「にんげん学」東京講座、東京の皆さん本年最終の講座です、講座も懇親会も賑やかにしたいですね、会場でお待ちしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌