何故?

おはようございます。

「にんげん学」東京講座、本年最終、ご参加の皆さんありがとうございました。
最終講座の幕開けは非常にドラマチック、開始一分前までは出演者は私と世話人のNさんだけ、覚悟を決めではNさん始めましょう、と言ったとたん、バタバタと、
終わりよければすべてよしで皆さんに感謝です、懇親会もお姫様ばかりに囲まれ終わりもドラマチックでした、よいお年をお迎えください。
新年は1月16日(水)です、スタートの日、終わりと同じように出だしが大切です、万難を排しご出席ください。一年越しで楽しみにしております。
一つ一つ納めを終えますと走馬燈のように思い出が蘇ってきます、ありがたいですね。
うんこれは良かったという思いと、う〜ん今一だったという思いの交錯。やはり体験からしか学ぶことができません、貴いものです。
良かったと思うことに喜び、今一だったと思ったことにも私たちは喜ばなければなりません。
運をつかむ人、逃す人の差はどこにあるのでしょう。それは今一だったということに反省が無く、そこから学ぶことの出来ない人が「運を逃す人」です。
今一だったということが多ければ多いほど学ぶこと、運をつかむことのチャンスに廻り合っているのです、そこから反省し学ぶことがないため「運を逃がしていく」のです。
一方運をつかむ人は「今一だった」ことを深く反省し学んでいきますから沢山の運を我が物としていくこととなります。
この違いが人生を左右する。
失敗が教えてくれる、世間様が教えてくれる、これは感謝としかいいようがないでしょう。
ところが運を逃す人は、気づきません。運をつかむ人と同じように「疑問」は感じているのですが、「何故」という意識の中身に天地の差があるのです。
同じ何故でも、運をつかむ人は「どこで誤ったのかの反省の何故」。運を逃す人は「俺は間違うものかという人を疑う何故」なのです。
今年も多くの「何故を感じました」もちろん「反省の何故」です。これで学ぶこと、修正することを知りました。来る年も多くの「何故を感じることでしょう」、そのことに感謝するばかりです。
気づかない私を気づかせてくださる世間、社会です。感謝せずにおられません。
もし失敗の人生だったと考えている人があるとするならば、考えてください。どのように考えるかはご自分でなさるべきでしょう。
本年の「にんげん学」講座も小倉講座が最後となりました。九州地区の皆さん、沢山の方にお声をかけてお集まり下さい。
自分磨きをする楽しさを皆さんにお伝え下さい。
今日は少しゆっくりして宇治にもどります。寺では今日明日と研修があり誠澄一人がんばっています。
外はとても良い天気です、帰りには富士山を拝むことを楽しみに帰ります、東京の皆さんありがとうございました。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌