素になる時も

おはようございます。

庭の落葉樹の木々の葉が全て落ち、枝だけになっています。これも風情があってなかなかのもの。
自然は四季の中で全てをさらけだし自然の前には隠すことは叶いません。木々を見て己の醜さを知ります。
隠そう隠そうとしている己、さらけ出せない己、粗雑はいただけませんが、素になる己も必要なのだということが枝だけになった木々を見て思い知ります。
葉を沢山茂らせたのは、花を咲かせたのはどの木であるのかもそこからはうかがい知れず、思い出すこともできません。人の噂も七十五日、時には素っ裸になって開き直ること、素になることも大事なことも知ります。
隠そう、隠そうとする執着心からは新しい芽は出ず、恥を知ることは大事であっても、そこに執着し次の行動のないことが最もいただけないのでしょう。
自然は毎年「一からやり直し」。己は毎年一からやり直しをしているだろうかと自然を見て羞じます、そして勇気も湧いてくるのです、今度はやるぞ〜と。
木々や花々を見て人は今年はきれいだった、どうだったと訳知り顔でいいます、作日までの苦労などは多くの人は感じていないでしょう。感じていないから悪人だ、心がないのだというのではありません。人とはそうしたものなのです、責めるものではありません。
このように私たちは結果を見て判断することをしているのです。そして忘れ去る、罪の意識などなく、だからこそやり直せる、又チャンスがあるのだとありがたい気持ちにもなります。
木々も花々もどんな条件や試練をもただ黙って受け入れ精一杯生命を輝かせている。その事が人を無条件に感動させるのでしょう。
人がどんなに素晴らしいことを行っても自ら誇るような人間には感動はしません。逆に興ざめするでしょう。
私たちは四季折々に気づかされます。二宮尊徳翁は「天地(あまつち)は くりかえし くりかえしつつ 説かざる経を読む」と歌いました。
物を言う私たちは物言わぬ物に学ぶことも大事です。年に一度くらいは精神を裸にすることも大事です。
失敗したことも、成功したこともやがては忘却の彼方なのです。己だけが愚かな執着心を持っているだけです。
良いお天気の昨日、冬日の中に目立つ葉を落とした木々、己の気骨の無さを反省しました。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌