風が持ってくる

おはようございます。

「にんげん学」小倉講座で本年の「にんげん学」講座全てが終了いたしました。小倉講座へご出席の皆さん一年間、ご多用の中毎月ご出席くださりありがとうございました。年末お忙しいとは存じますがよいお年をお迎えください。
来年も26日を基本的に予定しております、手帳にお記しいただきご一緒に学んでください、各地の皆さんもよろしくお願いいたします。
今年も一杯こけました(ころぶ、失敗すること)、一番印象的な事件は救急車に乗ったこと、気を失うことの簡単なことを体感。体は借り物、授かったものという実感。
言葉でこけ、実践でこけ、数えればきりがありません、でもそれもいいことと一人納得です、楽しい一年でした(まだ数日ありますが)。
喜怒哀楽が多い人生が楽しいのです。山あり谷あり、本人は結構しんどいのですが、振り返ればこの起伏がたまりません、毎年これだけよくもよくもドラマチックに生きるものだと苦笑いあきれてはいます。周囲で見ている人はもっと面白かったのではないでしょうか。
本音を語りますと、私には定期収入がありません。今まで一度も、一度もないというのは嘘になりますが、比叡山下山後収入がなかったので香、華、灯を得るために夜中トラックに乗り一年ほど定期収入は得ておりました(夜は昼の余りとか何とか強がりをいって)。
毎年振り返ってよくこのような綱渡りのような暮らしを平気でやっているものだと、無謀さにぞっとしつつも我ながら感心もしています、誠澄や身内はやせる思いかも?。
「焚くほどに風が持てくる落ち葉かな」「お天道様と米の飯はついてくる」で、生きるに必要なお足は自然が授けてくださると信じているのです。
未来を信じ、人事を尽くすほど愉快なこともないと実感もしています。自分の思い考え方を先人の知恵によって確立するというのは私ばかりではないでしょう。
人がもし物事に挫折することがあるとするならそれは「欲」からだと思っています。私に欲がないというのではありません。
美味しい物は好きですし、般若湯も大好き、寒いところはいや、辛いことは避けたい、ほどよい環境は大好き、このように思うことは欲ではなく、誰しも人ならば願うところ。
一昨日の行あけに食欲に惑い食べすぎで昨日は少々しんどい思いを、なんのための行やら。
欲とは賤しいこと、賤しいこととは無い物ねだりをする事。私は朴念仁でも無ければ、堅物でもありません。般若湯を呼ばれれば酔い、楽しいことをすればおぼれもします、しかしおぼれてもどっぷりつかるという卑しさはありません。次の日も飲もう遊ぼうなどと考えません。あれば飲む、楽しい機会があればたっぷりと堪能するといった具合。
お金があれば共に、般若湯があれば共に、仕事があれば共に、ということです。一人で楽しむそんな事はあり得ないと思うからです、偏屈は楽しくない。
比叡山下山後も直ぐ修業する若者がおりました、一人で食べるのもおぼつかないのに、でもそんな私を頼りにしてくれる人がいるとは愉快ではないですか、人生とは愉快なもの、一緒にいた若者は私にお金を当てにしたのではなく、物を当てにしたものでもなく、共にあることを教えてくれたのです。
今年も呵々大笑、何も持たない私を頼りにして下された人は大勢いました。
「汝等この山中に来たって衣食のためにすることなかれ、口あって食らわずということなく、肩あって着ずということなし」、大好きな言葉。
やせ我慢の極致。口があれば食える、肩があれば着物は着られる、そんなことで悩むようでは修業などはとてもとても、という語です。
計算出来ない頭で計算しない、疲れるだけ、共に楽しみ、我欲で使わなければこれで結構一ヶ月、一年に必要なお足はついて回るのです。お金のことをお足というのですよ皆さん、足があるからじっとはしていない、ならば共に楽しむことでしょうやはり、
財布から出すときは必ずお足に「いってらっしゃぁ〜い、又元気に帰ってお出でね〜お友達を沢山連れてと私は言っています」一度も沢山のお友達連れはない、でも思うことが楽しい。
目の前のことをしっかりやる、そこからドラマが生まれる、自分も楽しみ人様も楽しんで下さるような、
さて今日はどの方向から風が吹いてくる事やら、これから宇治へ帰ります。皆さん良いお年をお迎え下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌