まぁ〜るく、まぁ〜るく

おはようございます。

今日寺では餅つき、餅つきといいましても電気餅つき器、沢山ありますので誠澄は一日大変です。
遠近の皆様からのお鏡餅のお供えを沢山いただきました、お供えありがとうございます。皆さんの心が一年まぁ〜るく、まぁ〜るく円満で繁栄がありますよう祈りを込め丸めます。
お餅やさんに頼めば楽ですが、それではやはりありがたみが湧きません、何でもそうでしょう、買えば済む、その通り、しかし買えない物は「心」。
餅一重ねお供えするにも大変な時期がありました、弟子はそんな時代は知りません、買えば済むのにと思っているかも知れません、その通りです(ゴメン)。
心は非合理なもので、ここがありがたい。思いやりというものは皆そうでしょう。親がいくら子のため苦労をしても親は苦労とは思わず、子は当たり前、時を過ぎて気づかなければそれは成長して本人が苦労するだけ。
やって上げたから感謝せい、と言葉に出したら反発を買うだけ、「善責めることなかれ」、寺では感謝せいとは弟子に言いませんが、「しきたり」として残し、感謝を味わってもらう。
どんなに正しい理屈でも教えてやったから行動に出来るかといえば、なかなかそうは行かず、逆にそれよりもきれいに仕上がる餅屋さんで作ってもらった方が良い、と理屈で返ってくるだけでしょう。誰しも体で感じる苦労はしたくはないものです。
でも世の中面白いもの、やはり体で感じる理屈を超えた感動を知らなければ原理を本としての発想の展開はなく、いずれはその家、会社はつぶれるしか道はないのです。
上手下手を真実体で感じずに、人の上手下手だけを見るような人間性では楽をし、浪費するだけなのです。
楽からは堕落しか残らず、破滅の道を進むことさえ分からないでありましょう。形式の中に理があることを「しきたり」として面々として静かに続ける。
仕来りとは、仕えるゆかりを知ること。誰が己の楽のために人様が力を尽くしてくれるでしょう、そんな愚かな人はおりません。仕えよう、尽くそう、働こうという生き甲斐の心は誰の心にもあり、心の奥、魂の中にある喜びです。それを体感することで感じる。
表面的な楽を考えているようでは発想も行動も貧弱。
鏡餅一重ねを丸めることで人様の幸せになるお手伝いが出来る、このことに喜びを感じ、感謝がなければ誰もお供えなどしては下さらないのです。
物がないから貧しいのではなく、明日こそは、来年こそはという夢を持てない心が貧しいのです。
労すとは、労(ねぎ)らうこと。「人の労を労とす」と論語にあり、人の心をねぎらうことを労を以てする、善を責めることなく淡々と喜びを以て行うことなのです。口先ですることではないのです。
残すところ4日、明日を来年を夢見て心豊かに過ごし新年を迎えましょう。この世に何一つ不足など無いのです。不足に思う心が不足を生むことを忘れずに。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌