アドバイスを受ける勇気も

おはようございます。

今朝は強い雨です、昨日のお昼過ぎから降り始めてずっと降っています。昨日は書き込みの時間が昼前、一昨日は「にんげん学」一宮講座、これまでパソコンを持って出ていたのですが、昨日昼前に帰ることが分かっていたため持たずに出たからです。
以前にも書きましたが少し「ずぼら」をしようと思っています。何故このように思ったかと申しますと、以前は少し神経質だったのではないかとの反省からです。
几帳面ではなく、神経質、私のこのような性質を周囲は迷惑だったのではとしみじみ反省しているところです。
元来ずぼらな割には気が小さい質、意識的にキチンとしようと努力していたのは事実です。
孔子は大胆で剛毅な人間より気の小さい人間と仕事をすると言っていますので、気の小さいことは余り気にはしていませんがやはり神経質になっていたようですので少し「ずぼら」になろうと考えているところです。
しかし人間はなかなか平均が取れる、平衡感覚ということは難しいもので、どうしても「偏ってしまう」ものです。偏らなければ何事も修練は難しいでしょうし、その道では立ち行くはずもありません。
こう考えていきますとやはり「続ける」ということでしか何事でも磨きはかからず、物にもならずです。ではこの長所であり欠点である「偏り」をどうするかといえば「アドバイス、指摘」してもらう「師」の大切さが見えてきます。
偏るためにパラドックスに陥る、一方を見ればもう一方は見えない。しかしそうは思わないのが私たち。一方が見えていれば全てが見えるが如く錯覚をする。
アドバイスや指摘をうけることは年令を重ねれば重ねるほど経験を積めば積むほど必要で大事なことだと思っています。
何故かと言いますと、どうしても私たちは何か問題が起きますと、起きているにもかかわらず「自分にこだわる」からです。この「こだわりは」経験が長かったり年令が高かったりするほど顕著だからです。
アドバイス、指摘を受けることは言葉ほど容易ではありません。悩んでいるのに堂々巡りをしている人の多さがそれを物語っています。
昨年の11月に救急車で運ばれて几帳面なのではなく、神経質だったことを皆さんの言葉から教えられました。
人様は全て我が師、六十にして耳順う、論語を講義しながら「論語読み論語知らず」、語るに落ちるとも言うのでしょう、私は。

世界平和をお祈りいたしましょう。
Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。    合掌