自主性

おはようございます。

昨日は雨の中名古屋から東京に入りました。「にんげん学」東京講座ご出席の皆さん悪天候にもかかわらずご出席いただきありがとうございました。
5月は9日(金)です、よろしく予定を立ててご出席ください。
「にんげん学」講座では出席の確認をしていません、日程のご案内は致しますが、ご案内のお葉書を送るだけで出欠の有無は採っていないということです。
これは皆様の自主性を重んじるという私の考えだからです。
「自主性、主体性の話し」。
人様とのコミュニケーション、信頼関係を結ぶ方法の大事な一つに「言葉にある」と考えています。
「心は何かを通して表現する。投影(とうえい)、投射(とうしゃ)」。
「心」とだけ書いたり、言ったりしますと抽象的で曖昧なものです。
自分の心、私の心、皆さんはどのようにこの「こころ」を捉えていますか。人様は人様の価値観、知識で相手を判断し理解しようとします、このことは皆さんも同じ事ではないでしょうか。
私は私の心を「言葉に託し表現、投影、投射しています」。行動も「言葉に則し行動」しています。
これは人様に認めてもらいたいというのではなく「誤解されたくないという思いからです」。
「言葉は普遍性」。
言葉は普遍性があり、誰にでも「共通の意味、共通の意識としてもらえる」のです。ですから「言葉の指し示す方向に従って」歩もうとするのです。
投射「投げる、射る」というのは「自分の心を自分の目標に投げ射る」のです。
これを「自主性、主体性」いうのです。自分の心の存在は確かなものでも、「心が何を目指しているのかを明らかにさせる必要性がある」のです。
ですから「言ったことを行い、行ったことを言うことを心として」行動するのです。
「私は私でしかあり得ない」。
私は私の心に感動した言葉を通して心を表現しようとしています、自主性です。
ですから私は人様と会話をして「曖昧な表現はしません」、「イエスかノー」のどちらかです。
「その場しのぎの言葉は交わさない」ということです。
その場しのぎの言葉を発しますとどうなるかと言いますと、上の立場の人に対して発言した場合に「行動が伴わなければ信頼を失う」事となり。
立場が自分より下もしくは同じと思えるような人に発した場合「行動が伴わなければ相手を軽んじている」ということとなるのです。
結果「上からの引き立ても、下からの協力も得られない現実が時間の経過と共に生じる」こととなるのです。
何故このような事態、現実となるかといえば、「言葉の普遍性、方向性を知らない」からです。言葉を知っていても「真実の言葉の意味を知らない」。
「心は何かを通して表現されるということを知らない」のです。
人生を大きく展開するには「適当な付き合いは無い」ことを知るべきだと私は思っています。
「その場しのぎの言葉、付き合いからは何物も生まれない」。
その場しのぎの言葉を発することなく毅然とそして豊かに心を大きくして人様とお付き合いをしてより以上のものを確立したいと日々願っています。
人は自分の都合では動いてくださらないのです。だからこそ私は言葉、心を大事にしてお付き合いをしたいと行動するのです。
このように出欠を採らないという行為は、人が悪いのかも知れません、人を試しているのかも知れません。
良寛さんの詩に「花 無心にして蝶を呼び 蝶無心にして花にとまる 蝶 蝶を知らず 花 花を知らず 人 人を知らず」があります。
この詩を私は大好きです、言葉を通して心を表現し、無心に歩むだけです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌