信を失わずに接する

おはようございます。

両親の墓の前に立ちますと何故か涙がこぼれます、年のせいかもしれません、親孝行を何一つ出来なかったことへの自分自身の悲しさがそうさせるのかもしれません。
時は戻らず、これからは少しでも実家の兄に孝行しなければと思って故郷を後にしました。
「信を失わずに接する話し」。
私のこれまでの人生経験でハッキリ言えることは「信じる」ということです。信じるとは「相手を信じる」ことです。
人を信じなくなれば「心が離れる」という最悪の結果を招くのです。
誰しも自分の人生を確立する場合「目標を設置」します、それも「高い目標」を持ちます。目標を高く持つことは決して悪いことではなく、誰でもそうするでしょう。
しかしここで注意をしなければならないことは、目標を高くして「現実を確かにする」ということです。
目標に達するのは「一朝一夕には成りません」、誰でも知っているはずです。しかし知っていながら達せられないことに「焦りを持つ、感じるのも事実」です。
そこで実践の中から何を学ぶことが大事でしょう、やはり「現実の力量」です。現実の力量が目標を達するまでに到っていないことを「自分が知る」ことです。
そこで「不信感が湧かなく」なり、信じて黙々と又教えに真摯に従って進む、このように生きなければ未来の扉は開かれないのです。
目標に向かって信じて行動したのですから「諦めない」こと、途中で放棄しないこと、夢を忘れないことです。
目標を立て始めは誰しも「脱兎の如く」勢い込んで走り始めます。しかし思うようになりませんと「途中放棄」をしてしまう。このようであってはならないのです。
「終わり良くする者少なし」、終わりまでしっかりと「やり通す人が少ない」ということにならないようにしましょう。
やり通さないと言うことは「信の確立が為されていない」という「証」でもあります。自分の心でありながら「自分の心を失っている」といってもいい状態なのです。
結果や行動を見て私たちは人を判断したり評価したりします、自分の行動の結果、「現実を見る目、心が無ければ」最もしてはならない「自分を疑う」ということをしてしまうからです。
このような「愚を犯してはなりません」、目標を持てばこそ「失敗がある」、そこで「現実を確かに見る目、心を持つ」こと。
高く目標を掲げたからこそ「まだ実力、力量が足りなかった」ことを知ることが「信を失わず」、結果自分の心を疑うこともなく、最も大事な「人を疑うという心が無くなり」、教えからも、人からも「心が離れることもなくなる」のです。
心が離れてしまえば今まで築き上げてきた人間関係にピリオドをうってしまいます。誰しも失敗はあるのです。失敗に甘えることのない自分、そして失敗をした相手を疑わない、責めない自分を確立すること、それは「信の確立から始まる」ことを知りましょう。
信の無い世界は可能性に蓋をする行為、未来を閉ざす行為でもあります。
今夜は「にんげん学」京都講座、人間関係の根本である「仁義(相手が喜ぶことを行う)」を体得し、可能性を秘めている多くの人との出会いを多くする学びをしましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌