信仰

おはようございます。

今日は24日ですので愛宕寺の「月例幸福護摩祈願祭」、午前10時からです、是非お参りください、土曜日ですのでお休みの方もあるのではないでしょうか、ご家族でどうぞ。
「信仰心の話」。
私が考えている信仰心は一方的に神仏に従う隷属するといったものではありません、信仰は自由を失い、束縛されるのではないかと不安に感じている方もあるかも知れませんが、全く逆で自由になるのです。
ですから楽しく私は日々を過ごしております。
心は「自分の心」、誰の物でもありません自分のものです。自分の心でありながら「自由にならないのも自分の心」、皆さんもこのことは現実に実感することが多くあるのではないでしょうか。
だからこそ「悩みが生じる」原因ともなるのです。私も悩んだからこそ又人生を大事にしたからこそ「信仰に出会った」のです。誰でも悩みから解放されたい人生を確立したいと思うのは自然です。
先日18日、NHKラジオ第二の「宗教の時間」でもお話ししましたが(再放送は今日と以前間違えてお知らせいたしましたが正しくは明日25日夕方午後6時半です)、私は自分なりに懸命にやっていながら人と同じように出来ないという悩みを持っておりました。
共にありたいと思いながら出来なかった、そして寂しさを感じていたのです。時に「一隅を照らす」という言葉に出会って今日があります。自分の出来ることで「いいのだという言葉です」。
お釈迦様は「法灯明(法(真理)を灯火と為せ)、自灯明(自ら(出来ること)を灯火と為せ)」と説かれたのです。
法とは真理とは摂理とは何でしょう、「互いが互いを助け合うこと」だとお釈迦様は説かれたのです、そして「自分の出来ることが自灯明」です。
無い物ねだりをしないで自分にある物でお互いのために働くことだというのです、それが「一隅を照らす」でもあるのです。
この教えを仰ぎ信じることが「信仰心」です。常に目の前に仰ぎ見て自分のために歩むことが信仰心、それが社会に大いに役立つこととなるのです。
人様と比べ劣っている私でした、毎日毎日が落ち込むしかなかった少年時代、しかし今日は信仰に目覚め教えを頭の上に仰いで毎日自分のために「出来ることで歩み」心楽しく自由に歩んでいるのです。
信仰とは束縛から解放され大いなる自由を得、イキイキと日々を過ごせるのです。何をやっても上手下手はあり、遅い早いはあるのです、それもこれもお互い様、早ければ遅い人の手伝いをすればいい、遅ければ遅いで精一杯やればいい。
周囲の人は皆しっかりと見ています、私の出来ること、ふさわしいことを与えてくれます。
ありがたいことです、早いから威張るのではなく、遅いから卑屈になるのではなく、何ごとでもイキイキとやることが信仰心だと気づかされてから迷いは無くなったのです。
どうぞ皆さんも自分の心の中に何か悩む物があるとすれば積極的な「信の確立」をしてみてください。
10時に愛宕寺でお待ちしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌