街の中で

おはようございます。

年に数度一人ということがありますが何度か書いていますが一人でいることは好きであります。今仏様へお茶湯、水、お酒のお供えを済ませ書き込みです。
昨日九州小倉を一番の新幹線に乗り帰って来ました、ホームの雑踏の中で誰一人知る人もいないという状態も好きです、通勤で毎日通っておられる皆さんはこのような思いをするということは無いかも知れませんが、孤独感が好きなのです。
「街の中で考えたこと」。
先日も九州〜東京と往復し沢山の人の中で自分の存在を誰もが意識もせずに目の前を通り過ぎる、私も同じように何の意識もなく通り過ぎていく。
満員電車の中でも誰一人知る人もなくただ同乗している、人間の存在は自分が意識しなければ埋没するのかもしれません。しかしあるところに在れば存在感を感じる、広い世界では無意識であれるのに、狭い世界では意識してしまう自分。
世界はやはり目の前なのだと改めて思う。
意識しない世界、意識する世界、同じ自分なのに左右される、されている。どちらが本当の自分なのだろうとも。
広い世界では心が無機質で何の反応もしない、別の生き物のようでもある、周囲の人に関心もない、邪魔にもならない、体で反応する世界だけで反応している、電車に乗って混んでいると少し前に行ってくれればいいのにとか、もう少し席を譲ってくれれば座れるのにとかである。
そこには思考の世界はなく体感の世界だけ、思考がストップし異次元の世界がスローモーションで見えているようでもある不思議な感覚、夢の世界とも似ている、感覚的に嫌なことでも記憶に残らない、異次元の世界。
人間は意識しないでもおられる、しかし意識しなければ人間ではないことも確かである、やはり意識すべきであるということを一人いると実感するのです。
広い世界では無意識が無意識で出来る。職場や仕事の世界では意識してしまう。どちらも自分。
無意識の時が無意識かと言えばそうではなく、ただ行き先に無意識に向かっているのであり、ひたすら無心で向かっている自分。
ハッキリと答えがある故に無心になれる自分。
こう考えたとき普段誰とも会う前に瞑想することの意義があるようです。行き先(目標)がハッキリしていれば無心になれる、周囲に惑わされない、集中できる自分です。
雑踏の中であれだけ人が多いのにそれを気を止めることも惑わされることも無くス〜イスイと歩んでいる。
答えをしっかりイメージする修練、瞑想をすれば迷いも惑いもなく目標に達せられると希望が湧いてくるのです。
そして広い世界で意識されないことを知ったとき縁の大事をしみじみとありがたく思うのです、お付き合いいただいている皆さんに感謝です、ありがとう出会ってくださって。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌