「にんげん学」を共にしましょう

おはようございます。

昨日秋葉原に着きホテルに荷物を預け事件現場に手を合わせに行ってきました。花が美しく、悲惨さが一層感じられ涙がこぼれました。
人が人に影響を与えることは至難の業、しかし大きな影響を与えているということも事実です。
「にんげん学」を始めたきっかけが「オーム事件」、その後も多くの殺傷事件があり非力を痛感しております。
皆さん「心学を修めましょう」。
「心学が社会を平和にする話」。
「にんげん学」東京講座へご出席の皆さん昨夜はありがとうございました。来月も是非ご出席ください。7月は18日です、楽しみに出て参ります。
皆さんが「にんげん学」を修められていることが必ず静かに自分を変え「世の中を変えると信じ」てお続けください。
私たちの心というものは不可思議なメカニズムを持っています。置かれた環境の中で人より「知識や技術が優れていれば誇りたいという無意識がわき出」。そして「劣っていると感じれば恥ずかしい、やるせないという感情が起きる」のです。
「感情は無意識なだけに存在を認めなければならない」。
優越感、劣等感いずれも縁に遭遇しなければ「表面化されないことが問題」です。
そこで「心学」の重要性があるのです。
優れておればこの情況が長く続けばいいと考え、悪ければ無くなればよいと考える。どちらも正直な感情です。もうそこには周囲の人を思う心が失われている。
人間の感情に良し悪しは無く、「良し悪しでは無い」との感情の存在を認めなければ「何の解決法も見いだせない」のです。
人と共に喜ぶ、人を憎むこの相反する感情も同じです。
人を憎む、悪いことをする、この「感情は本来人間は持てないもの」です。人間には「良心が備わっている」からで、善を思う心はあれども「悪心は希薄なもの」なのです。
だからこそ「隠れて悪いことをする、人に知られずに憎むのです」。
このような感情が人間が潜在的に持っていることを確かにしなければなりません、それを知った上でどうすべきかとなるのです。
そこで「心学」の重要性です。
この心学は利害を感じることのない年令の時に心の中に「植え込む」必要性があるのです。
優劣、損得、遅速、上手下手を余り認識していない年令の時に潜在意識の中に打ち込んでおく必要性です。そして利害で苦しんだ大人も気づき学ぶべきなのです。苦しんだからこそ苦しまない社会を作ろうと。
明治時代から昭和の初めまでの小学校を「尋常(じんじょう)小学校」と称しておりました。尋常とは常を尋ねるという意味で、対人関係を「どうあるべきか」を教え育むことです。
人生、対人関係が一番の悩みとなるからです。
小学生、幼児、児童には常を教えたのです。いうところの知識学問というものは枝葉の学、枝葉末節の学です。「人としての生活を支える学が知識学」です。何故支えなければならないのかを「教える学が」尋常学(心学)なのです。
どのような社会でありたいと皆さんは考えますか?考えたことはありますか、考えるべきです。
お釈迦様は「慈悲の社会を」と明言し、伝教大師様は「己を忘れて他を利する」社会と。朱子は「親を愛し、長を敬し、師を尊び、友に親しむ道」を社会と明言しました。「互いが互いを支え合う、思い合う社会」です。
優劣、損得、遅速、上手下手は無くなりません、ではどうするか、やはり「支え合う共存の社会」です。
ここで「心を練る」必要があるのです。何故親を愛することが大切か、可能性を与えてくれたのが親です。何故年長者を敬する必要性があるのか、知識や技術を伝えてくれたからで、何ごとも物事には順序次第、長幼の序があり、これが乱れれば世の中が乱れる。何故師を尊ぶ必要性があるのか、指導して下されたからです。何故友と親しむことが必要なのか、切磋琢磨できるからです。
「こいつがいるから上にでられない」という考えは「下克上時代」と同じ、争いしか生まれず、切磋琢磨の精神からはほど遠い思考です。
これらは永遠に変わることのない摂理です。
愛する心、伝えられた事への感謝、教えてもらった事への尊敬、共に錬磨することの喜び。
場所を変えれば優れた人は数多おり、劣っていると見られる人も数多、自分のいる世界だけが世界ではないのです。世界は広くそして狭い世界で悩まないためにも心学を学び「心の自由」を体感すべきなのです。
しかし心学を修めていない人は「自分のいる世界だけが世界だと固定観念となる」のです。
誰が悪い、政治が悪いなどという議論は置いておいて人として「心の学を修めて欲しい」のです。
心学は真の平和な社会を作っていく根本の学です。根本の学を修めてこそ、人を治めることが出来ていくのです。この学には終わりがありません。
何故でしょうか、文明は現在の最高水準で継続されて進化することが可能ですが、人間だけは「生死を繰り返し、一からやり直し」しなければならないからです。
何時の時代でも「おぎゃ〜と生まれて」人として人を育まなければ成らないのです。機械、科学文明が継続されているから人間も現在からの継続というのは「あり得ない」のです。
私たちは生々において「こころ」という命題を学ぶことにおいて平和であることが出来るのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌