存在感

おはようございます。

朝から蝉の合唱、凄いですね〜何年も土の中にいて漸く地上に現れて精一杯生命の爆発をしているようです。
蝉が物を考えられるのかどうかは別として懸命な命、魂の叫びのように私には聞こえます。
「存在感の話し」。
行動、パフォーマンスは「命」です。自分の存在感は「他に認められる、られないではなく自意識の問題」。
「命(めい)」とは仏道修行の「八正道(はっしょうどう)」にも説かれるように「生活、日常のライフスタイルそのものが正命(しょうみょう)」。ですから日常の生活スタイルそのものに人生の「重要性」があります。「生活そのものが存在感、命だ」ということです。
ここでやはり一番問題なのは自分の存在が他に認めて貰わないと「存在感を認められないのだ」と「思い違いをしない」ことです。
私は比叡山修業時代は山の規則に従って過ごしました。しかし常にトップということではありません、ほとんどが人並み平均点、いいですね平均点、安心できます、そして「次こそは、明日こそはという」希望も夢も持続できる。
平均点でも「社会はありがたいものです」、そんな私でも「存在感を認めてくださり」結構指示を「いただき」、場も与えら、与えられたところから多くのことを学ぶことも、気づきもいただきました。
大事なのは何ごとにも「力を尽くすという自意識、姿勢、スタイル」です。これは認めて貰うためでは無く、「自分の命を輝かすという手段、パフォーマンス」だとの「誇り、価値観」です。
「私が私であると私が感じたから」です。
そこにはいろいろな批判も批評もあったのは事実。しかし社会はありがたいもの、人様はありがたいもので「見捨てはしません」、現在私があるのは皆様のお陰です。
その「温かさに触れて」自分が行動したことでの批判も批評も全て受け入れて自分を「磨き上げてこそ真価が出る」と信じたのです。
心華寺に来てからは比叡山をお手本として「自分で規則を決め」それに従い行動、パフォーマンスをしました。現実の苦も楽も全て肥やしにして生活、行動したのです、行動したからこそ当然のこととして苦楽は生じ、それを楽しむことが「生活」であると信じ未来を夢見たのです。
私の意識は現在の情況で「行動する」ことを旨としたのです。
行動、パフォーマンスに移すとき「あれがなければ、これがなければ」という「無い物ねだりをせず」、現在の出来ることで常に行動する、これはこれからも変わりません。
条件や情況が完璧に揃うなどはあり得ません。
生きる=働くこと、だと私は思っています。人生に於いて働くことが全て命、働くことの優劣はないのです。
私は人間性が強いから出来たのではありません、「憧れ」です。「あのように生きたい」という道を歩んだのです。
その道中でいろいろな景色を得て味わって楽しんでいるのです。
上手下手に左右されない行動、パフォーマンスです。続ければ続けるほど上達するのです、それは「人様と比較していうのではありません」、自分自身の進化、喜びです。
「今日よりも明日、明日よりも明後日という具合に」楽しみを思い描くのです。
自分の日々の生活、命をこのように明快に意識してあれば自然存在感は外に外にと世界を広げていくのです、コップに水をためて一杯になれば自然あふれるようにです。
口で自慢をしなくとも日々の生活をしっかりとしていれば、その人の人柄は隠しようもないのです。
蝉は自分が鳴けることを知っているのでしょうか?私には分かりませんが、きっと命が鳴かせているのではと考えているのです。
私はことある毎に精一杯生きることをしているだけです。
今夜は「にんげん学」小倉講座、今日も暑くなりそうです、それ以上に自分の情熱を燃やしてご出席ください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌