箴言(しんげん)

おはようございます。

昨日宇治ではお昼12時頃から夜の9時過ぎまでゴロゴロとビックリするほど凄い雷鳴と雨、一時呆然と稲光と強い雨を眺めておりました。
金沢や福井、各地では大雨で洪水となり大変なこととなりお見舞い申し上げます。
人間は自然に抗うことはできません、暑さも猛暑続き。
箴言の話し」。
私たちの日々の基本はほとんどが自然の運行の元での生活。お仕事では人様が相手ですが、四季の移ろいの中での生活。
寒いときもあれば暑いときも、雨もあれば嵐も、気持ちの良い日もあればいろいろです。自然には「文句一つ言うことは出来ません」、言ったところでどうしようもないのも知っています。「自然の運行の安泰を祈るばかり」です。
故に古人は天地自然から学んだ心を文字に表し「語」とし、箴言(しんげん)としたのでしょう。
箴とは「医療用に使う針」のことで、針で刺せば痛いのですが、病が癒えることから「心を戒める、心に刺さる言葉」でありながらも「心を戒め、改め正すことが出来る」と言うことで箴言といったのです。
維新の志士、西郷隆盛は「敬天愛人(けいてんあいじん)」、天を敬って人を愛す。人様と対するときは天に対するのと同じように接し愛する、敬愛するということを旨として接したそうです。
自然を人格化して捉え、どのような情況に於いても人の所為(せい)にしたりすることなく、「必ず道が開かれる」ことを思ったのです。
「天無私(てん、わたくしなし)」という語もあります。
天は公平無私でありますが、時として私たち人間にとっては厳しい状況をもたらしたり、時としてはある地域にとんでもないことをもたらすものです。
しかしそこには人為的、作為的なことも無理も無いのです。
この真理を悟ることが出来れば対人関係の中に於いても試練を迎えたときに「自然がもたらしたものだ」と考えることで、一時は心騒がせても自らを見失うことは無く、自然がいろいろな禍をもたらしたとしてもその運行は滞りなく在るのと同じく、「冬来たりなば春遠からじ」との思いを致すことも可能となるのです。
人間関係やお仕事の中でいろいろと思い違いや取り違いということもあり、結果仕事に結びつかなかったり、意見が違ったりしてしまうことは往々にしてあるものです。不運を嘆くこともあるでしょう。
時にどのように「対応するかが問題」となってきます。
そこで大切なのは上手く行かなかったときは「天に対すると同じように対する」ことが大事なのです。
いろいろなアクシデントはあるものです。時に一時のトラブルで相手を怨まず、心騒がせず、次の手だてを考えられるようにしなければなりません。
努力をしていればしているほどこのような在り方が大切です。
そうしませんと「何をやっても駄目だ」というような愚かな考えに陥ってしまい、今まで「蓄積してきた知識や経験をも無駄にしてしまう」からです。
思い通りになるということは何一つこの世にはありません。道理に則さないことは無いと言うことです。
人間同士が話をしていますと何でも出来そうにも思えるのですが、ならないと言うことは「時期尚早」であったり、「遅かったり」ということもあるのです。
先日小倉の「にんげん学」講座での「論語」顔淵篇で学びました「子曰く、君子博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、又以て畔(そむ)かざるべし。」とありましたが。
意は「学者(仕事をする者がと読み替えて)が幅の広い学問をして識見を広めると共に、他方において正しい実行の立場から学び得た知識をしめくくって行くということであれば、道にそむかぬ立派な人物となることが出来よう。」
私たちは事を為すと言うことは結果を求めているわけであって、途中で投げ出してはならないのです。
一度や二度の失敗で学んだことを投げ出すようであってはならず、人を怨んでもならず、時に天を相手にするような心で人様と対すれば「次」は必ずあるのです。
相手を怨まず、自分を怨まずに知識経験を知識経験とするためには「原則に沿って次こそは」という工夫、思考を巡らす事が大事なのです。
日々この暑さの中で「暑いなぁ〜と思いつつも」仕事をしている自分を忘れずに、不平不満とすることなく、常に自分を磨くことが「次へ」のステップアップになるのです。
恐くなるような雷鳴と豪雨を眺めて思うところでした。
さてこれから朝のお護摩で一汗流します。やっていることは変わらずとも自然の移ろいでいろいろな心模様を味わって「次への準備」をしています。自分を戒める箴言はいつまでも必要なようです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌