曖昧に生きない

おはようございます。

涼しくなってぐっすり休めることがありがたいことです。蝉の声も少なくなり虫の声に変わって何かあの猛暑も随分遠い昔のようにも思えます、人間の感覚というものは妙なものです。
身にしみるということの難しさを再認識したようにも感じ、言うところの「喉元過ぎれば熱さを忘れる」が真実なのかもしれません。
「曖昧に生きない話し」。
昨日は覇気という事を書きました、今日も同じようなことですが、「曖昧に生きない」ということを書きたいと思います。
曖昧に生きないということは「自分を確かに持つ」ということでもあります。「万法帰一(まんぽうきいつ)」という語があります。
意は「全ての事象、現実は自分に帰る」という意味合いで因果応報と考えてもいいでしょう。どんな川でも海に流れ込むというふうに考えてください。全ては自分に帰する、と考えて人生を生きるべきだという事です。
人は毎日働いております、働くということはとりもなおさず人のためになっているということでもあります。しかしその「為」が良い結果で帰ってこないということもあります、何故でしょう?、それは「心の在り方」に問題があると考えられます。
漫然と行っているか、それとも真実「人のためと」考えているかの違いです。
故に「これで生きる」という「核を持つ」ことが無ければせっかくの縁に出会いながら自身を高め、磨き上げていくチャンスを逃してしまい「人のためにもなっていかない」のです。
日常の中で良かったこと、悪かったことの出会いの繰り返しです。時に悪かった現実が眼前に生じたとき「自己責任を感じるか否かで」次の展開の「良否」をもたらすのです。
全ての現実を「我が事、我が問題と」捉えられるかどうかということです。
この時生き様が曖昧ですと「問題を問題としない己であれば、進化はしない」でありましょう。結果は「自分のせいではない」と「問題視せず見て見ぬふり」をするような曖昧な生き方をしてはならないのです。
人生は「一瞬」の動向が大きなポイントとです。そして行動のほとんどが「自分の意志である」ということです。
誰が彼がという問題ではなく、「自分の意志」であるということです。だからこそ曖昧な人生を送ってはならないのです。
何で思ったように人生ならないのだろうという質問や、疑問をよくお聞きします、それらは全て「人生の方向を確かにしていない」ということが上げられます。方向が定まっていませんから、「修正も、学びも、鍛錬も」できないのです。故に「問題に直面していても、問題視できない」のです。ですから「社会の役に立てない」自分があるのだということにも気づけないのです。
問題のない人生などはあり得ません、時に自分の「動向を曖昧にしないこと」が人生の展開を左右するのだということです。
「思いは一瞬」です。この一瞬の思いに「社会性が在れば」自分の問題として捉え、全て曖昧に捉えずに次の行動が確かにして学ぶ物は学び、高めなければならない物を高め、待つべきは待つようになり、足りない部分を補うという、しなければならないことが見えてくるのです。
曖昧にしない思い、動向があなたの人間性となっていくことを知りましょう。そのためにも「聖賢の語」を心に保つ学び「にんげん学」をご一緒に学びましょう。
人は知識は二元的世界です、知っている人もあれば、知らない人もいるのです。ですが「情」は誰にでも在ることを知りましょう。
聖賢は「人の悩みを我が悩みとした」のです。人の問題を他人事とは採らなかったということです。
苦しいとき、悩めるとき、そんな時側に人様がいるということは「何物にも代え難い愛を感じるものではないでしょうか」、皆さんはどう思われますか、私は人と共にあることが嬉しいのです。苦しいときも、悲しい時にもです。
だからこそ生き方を曖昧にはしたくはないのです。教えにすがり、友にすがり、みんなにすがり生きたいと思っている、強くない人間だからこそ愛情を大切にしたいと思うのです。
今夜は「にんげん学」小倉講座、会場でお待ちいたしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌