強さを願わず

おはようございます。

今月もご愛読ありがとうございました。お盆を過ぎてから涼しくなり、先日は豪雨の被害があり夏休みの最後に大変なことでしたが今日は日曜日しっかりと整理をして一ヶ月を締めくくりましょう。
「強さを願わない話し」。
強くなりたいとは誰しも思うことです、かつての私がそうでありました。現在は「夢を追い歩み続けたい」と思うばかりです。
強くという思いは「相手があってのことです」。
言葉を換えれば「勝ちたい」ということです。このように考えているということは「相手に心を奪われている」ということであり、「平常心を失っている」ということでもあり、心が「平らでありませんから」心が落ちつかず波立っている状態です。決してその心の上には知識も技術も身につかないのです。
「主体性を奪われている」、といってもいいでしょう。
強いから人生を全うできるのかといえば、勝ち負けでの強さからは人生の全うは難しいものとなります。多くの人を見てきましてこれは断言できます。
人生は勝負ではなく、「夢に向かって歩むことだから」です。ですから「強くなくとも可能」なのです。
強くなければと思っている人は、何か失敗をしたり、つまずいたりすることを「弱いからだ」と思い違い、考え違いをしているのかも知れません。
先日の豪雨で大変な災害をもたらしましたが、雨は「水」です。このようなときにたとえ話で水を用いるのは時を得ていないことでもあるのですが、一番わかりやすいたとえですので非礼を承知で書かせていただきます。
私は「辯財天信仰」をしております。辯財天は「水神」であり、生命の源、そして才能(知恵・学問・芸能)、商売(福)、地位(禄)を司る神、これらのご利益を下さる神と称されています。
何故かといいますと、「水は柔軟であり、持っている特質、才能を大いに発揮し循環するからです。雨一粒のしずくでは微力でも、下へ下へと蛇行して流れ、集まりますと大なる力となり電気も発電、山をも動かすパワー、何年かかっても石をも穿ち穴をも開け行き詰まることがない等々」の凄い力が「水」なのです。
そこから「水神信仰」となってきたのです。大河は蛇行して大河となるのです。直線では大河とはなり得ないのです。弱いからこそ蛇行、方向を変えて障害を避けて流れることを止めず大河となったのです。
これは「水は一見弱いから」でもあるのです。外には強さを見せず、万物を潤し、常に下に下り、そして万物を育む。
「上善如水(じょうぜんにょすい)」、善の上善なるものは水の如し、であるという語です。これは「水を見習え、教訓とせよ」ということです。
いつも書きますように、私たちの能力は「何かを通して発揮される」のです。技術も、知識も、「心の在り方も」です。
私は「水のしなやかさを見習った」。
何ごとも「習ってこそ」です。習うとは「毎日習う」のであって「歩み続けること」です。人に惑わされている閑など無いのです。
人に心を眩ませることなく、弱い自分に自信を持って歩みましょう。私は辯財天様の教えを知って見習って今日まで来ました、これからも大いに蛇行して大河になることを目指すのです。
来月もよろしくお願いいたします。明日1日から早速「にんげん学」京都講座、心学を学び迷いに従わず、「教えに従って」9月も目標に前進して参りましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。              合掌