勇気と臆病と

おはようございます。

一年も後半になり振り返って見ますと私は非常に臆病な人間だということをしみじみと思います。又臆病であって良かったとも今では思っています。
ある時期盲信に近い信じ方で歩んでおりました。教えられたことをしなければ眠ることさえできない神経の張り詰めようでした。
「ただの勇も駄目、行動のない臆病でも駄目という話し」。
師の元で10年、常に指導をいただき何をしても「うん」という良否の判然としない師の言葉に「これでもか、これでもか」という思いで何でもやっておりました。
お陰様で師から離れて心華寺に入ってからもどこかで師が見られているという思い、時間を確かにして生活、一日の計画、一ヶ月の計画、一年の計画を立て時間割に沿って30代を私の生まれ干支の如く猪突猛進。
孔子も30にして立つと言っているように、「こうあろう」という思いをして歩み続けたのです。
そのような30代の私の姿を見て多くの人は強いと感じたようです。
「天知る、地知る、我知る」、
信者さんも無く、訪ねてくる人もなく、あるのはただ時間だけ、何もしていないことが怠けているという恐れに似た気持ち、臆病であっただけでした。だからこそ身についた教え通り忠実に祈り、作務の一日。
冬は水垢離を取り、毎月各地のお滝場を回り滝行、お四国、西国、秩父の巡礼、日々時間を決めて勤行、50日間の夜中33キロの懺悔連行、12月には一週間の断食断水不眠不臥、時間を追うように一年を過ごしていました。
厳しく厳しく己に接し、それに立ち向かうことで臆する気持ちを払拭する気持ち。
誰にも情熱はあります、「為せばなる」の情熱を持っていても道理に基づいて夢に向かっての行動で無ければいけません、道理も根拠もない情熱では単なる「匹夫の勇」。
真の勇気は「道理に基づき不透明な未来に明快にイメージして歩み続けること」です。
勇気はこのようでなければなりません。何ごとも一日二日では事はならないのです。己の歩みを信じない人を人様が信じる道理はないのです。
また誰でも臆病な面はあります。この臆病も先の匹夫の勇も外に対して「人様に対して抱く感情」です。事を為そうとする情熱とは「似て非なるもの」です。
臆病であればこそ自信をつけるために「同じ事を繰り返し繰り返し行うこと」です。「前へ進もう、上達しよう」という行動がなければ、せっかく自分の「修正箇所が分かったにもかかわらず」そのままにしてしまい、生涯悩んでしまうこととなるのです。
人は苦手なことで失敗をしません、得意なことで失敗をするのです。
苦手なことには慎重になるからです。得意になると増長し、慢心し日々の鍛錬を怠るようになり、何時しかできなくなり大きな失敗をするようになるのです。
ただの勇気では駄目、ただの臆病でも駄目、いずれにしても「道理に基づく行動が大事」なのです。
大切な人生、勇気結構、臆病結構、しかし学び修練してこそ真の勇気にもなり、臆病が緻密な気配りのできる行動にもなることをお忘れの無いように。
そして臆病であっても「事を成し遂げようとする行動が」最も大切な「忍耐力を養う」のです。忍耐は考えて身につくものではなく、「耐えてこそ身につく」のです、これは臆病の最も素晴らしい才能でもあると今では思うのです。
明日は「にんげん学」一宮講座、中部地区の皆さんお誘い合わせの上ご出席下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌