朋有り

おはようございます。

「にんげん学」大阪講座、ご出席の皆さんありがとうございました。昨夜は東から西からと普段に無いご出席の皆さんとご一緒に学び又違った楽しさがありました。
来月は7日(火)です、またお会いできますことを楽しみにしております。
「朋遠方より来たる」。
遠近は距離的、物理的の遠近ではありません、身近にいても心が離れていては遠いとも云えるからです。遠くとも心が通じていれば身近な存在でもあります。
出会いは心の在り方、思いがいかに大事かと云うことです。
論語「学而第一」の冒頭に「子曰(しいわ)く、学(まな)びて時(とき)に之(これ)を習(なら)う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからず乎(や)。朋有(ともあ)り遠方(えんぽう)より来(きた)る、亦(ま)た楽(たの)しからず乎(や)。人知(ひとし)らずして慍(いか)らず。亦(ま)た君子(くんし)ならず乎(や)。」
意は、「孔子言う、学問をして、その学んだところを機会ある毎に復習し練習して行くと、学んだところがおのずから真の知識として我が身に体得されて来る。これはまたなんと愉快なことではなかろうか。このようにして修養を積むと自然、共鳴者、又は同志の者が出来て、遠い所からまで慕い訪ねて来るようになるであろう。これはまたなんと楽しいことではなかろうか。又自己の学習により友との切磋によって磨かれる学問は、終いには真の徳操となって、分に安んじ命に立つ所まで進まなければならない。この境地に至れば、すでに世の毀誉褒貶(きよほうへん)は問うところではない。たとい世人が自分の学徳を認めてくれなくとも、これを怨まず尤(とが)めず、平然として世に処することが出来るであろう。この点まで進み得た人であれば、これこそ真の修養の出来た君子人というべきではなかろうか。」。
これは学習上の三段階を述べた個々の教えではあります。その中に又一貫した条理も認められます。
第一節に述べる自己の学習が出来上がれば、必ず志を同じくする同志は来たり集まると説いています。そこに第二節の意義があり。
しかし人生は必ずしも順路のみとは限らず、いかに自己の修養が出来ても、世人がこれを認めず、或いは誤解し、甚だしきは曲解する場合もあるのです。その場合に処してなお且つ自己の徳操を信じ、分に安んじ命に立つところがなければなりません。これが第三節の意義なのです。
これを孔子の一生について見ますと、孔子は生まれながらにして知ると言われるほどの聖人ではありました、しかも十有五にして学に志し、常に学んで厭(いと)わざる努力を続けたのです。これが孔子の学習でした。
その結果、多くの門人も集まり同志も得。人の推(お)すところとなって魯国(ろこく)の君に用いられ、その経綸(けいりん)を行ったこともあります。これが孔子の有朋です。
しかし又、君に疎(うと)んぜられ、位を失ったこともあり、天下周遊の途次には、生命の危険にさらされたことも一再ではありませんでした。かかる逆境においても、孔子は常に分に安んじ命に立ち、われ五十にして天命を知る(為政(いせい))と言っています。
これが孔子の人知らずして慍(いか)らざる徳操(とくそう)であったのです。かくて七十余年の生涯を通じて、孔子論語開巻第一の教訓を自己の一身において実現したのです。
私は孔子のような徳操ができないまでも、日々学ぶことで昨夜のように遠近にかかわらず共に学ぶ人があることを「有朋」と信じるのです。
学は疑いを差し挟む余地はないのです。
明後日12日(金)は「にんげん学」東京講座です、東京地区の皆さん待っていてください、楽しみに出かけます。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌