単純に

おはようございます。

今朝は曇っています、静かな朝、虫の声一つ聞こえてきません、聞こえてくるのは新聞配達でしょうか、バイクの音だけ、中学生の時の新聞配達が思い出されます。
「単純に生きる」。
私は単純に明快に生きるようにしております。考えるとすれば教えを実践しようと単純に考えるだけです。
悩みを多くする人の傾向を見ますと「無い物ねだり、あれもこれも上手を願っているように見える」のです。
仏弟子になってから心がけていることは「如法(法の如く)指示に従う」という明快さです。そこから何が得られるか、その先どうなるのかなどは考えないと云うことです。信じるとは従って歩くことと考えてもいるからです。ですから悩むこともなく苦しむことも保身もありません。
肉体的、精神的にしんどかったことは多々ありましたが、迷ったことはありません。一日を懸命に生きればその中に結構楽しさはあるものです。
庭を掃けば美しくなる楽しさ、重い荷物を持って解放されたときの喜び、沢山ありました。この単純な喜びを感じるのも又いいのです。お陰で喜びの範囲が多くなったようです。
そのことで人の言葉にも素直に従うという事ができたように思っています。自分の考えと人様の考え方は当然違います、皆さんはこのことをしっかりと肝に銘じて人様と接しておられますか、ここが肝心です。
どうも世の中の多くの人は会話ができていると互いが理解できる、話が通じていると勘違いしているようにも思えるのです。「親しき仲にも礼儀あり」、会話ができていることと、心が通じ合っているのとは次元が違うのです。
ですから私は人様に理解を求めるのではなく、「人様には協力するもの、信じるもの」と単純に決めて行動しております。もしもこのように歩んでいて悪につけ込まれるようでは欲で歩んでいたと云うことです。
御仏の教えの一つ「慈悲」も同じ事です、相手云々ではなく、ただ単に慈悲を行う、これだけです。
ところが話が合っているだけなのに、どこでどうしたのか、無い物ねだりをして自分の気持ちを理解してくれているものだと勝手に思い違いをして、トラブルや、商談が上手く行かなかったとき相手を責めてしまう、それが打算なのです。
打算で一時は上手く行っていたとしても必ずほころびがでるものです。
道理に単純に生きておりますと、堂々としかも謙虚にそして清々しく生きられるのです。開き直りでなく、できない物はできないし、できることはできるとハッキリと行動をするからです。
単純に生きれば己が分かり、言葉で飾らず、見栄を張らず潔くそして人を尊敬でき、希望的観測もせず、感情論でも歩まず、自分ができないことで、できる人を見れば憧れを持って見ることも出来るのです。
昨日も書きましたが美しい物を見れば心が楽しく感じるのと同様、自分のできないことを行う人を見ることも楽しいのです。世間には素晴らしい人が大勢います、そのように見ていく人ほど人はやはり集まってくるのです。
誰が否定する人の所へ来るのでしょう、感じの悪い人の所へは来るはずもないのです。
単純に生きましょう。あれもこれもできようがないのです。あれもこれもできているように見えている人は「多くの人を認めているから」集まってきて皆で協力し合うからこそ傍目にはそのように見えてくるのです。
単純明快に生きてこそ人材が集まってくるのです。
こんな話があります、《中国の戦国時代、郭隗(かくかい)が燕(えん)の昭王に賢者の求め方を問われて、賢者を招きたければ、まず凡庸な私を重く用いよ、そうすれば自分よりすぐれた人物が自然に集まってくる、と答えたという「戦国策」という書にあります。
これは「隗より始めよ」という有名は言葉となっております。.
自分を知って単純明快に生きましょう。単純に生きると云うことは自分を欺かない、自分に嘘をつかない、言葉で飾らない、見栄を張らなければできることです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌