先ず受け止める

おはようございます。

六十にして「耳順(みみしたが)う」とは孔子の言、悪言にしろ善言にしろ最近はあまり「ひっかからなく」なってきたようにも自分を感じています(言ってはみても希望的観測が大)。
「先ず受け止める」。
昨日は認める、という話を書きましたが今日は「受け止める」。昨日と表現は違いますが同じようなことです。
孔子は六十にしてどのような言葉を耳にしても「素直に考えられるようになった」といって「耳順」と言ったわけです。
この語は論語「為政篇第二」にある「子曰く、吾十有五(われじゅうゆうご)にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず。」にある語です。
この言葉から、人の年令十五を志学(しがく)、三十を而立(じりつ)、四十を不惑(ふわく)、五十を知命(ちめい)、六十を耳順(じじゅん)、七十を従心(じゅうしん)の年と言うようになったのです。
六十才になる前でもやはり素直に言葉に順うことに心がける事は大切なことです。
耳障りの悪い言葉にはどうしても反発を覚え一顧だにせず退けてしまいがちなのが私たちです。そして耳障りの良い言葉にだけ反応しがちとなるのです。
言葉に対する対応一つで同じ過ちを犯すことが無くなります。私たちは目標に向かって対人関係を築いていきます、そんな中で対応を間違おうなどと考えて行動はしていません、だからこそ何かで指摘を受けたときや反論に出会ったときは素直な反応、対応が大事なのです。
是々非々はありますが、やはり「相手の意をくみ取るという意識の作業も大事」です。何が相手に反論を与える機会を与えたのかを確かにするためにも受け止める事が大事です。
感情的になって自分の冷静さを失うようであってはせっかく今まで築き上げてきたものを失うことが最も愚かな行為だからです。
衝突が起きるのはお互い良い結果を生み出そうという気持ちから起きるのだという意識が大事だということです。
人間全てが悪い人という方はおりません、この観点から見ていけば一時の言葉の行き違いで相手を失い、自分を失うということをしてはいけないということです。
私たちが日々生活、仕事をしているのはお互いが関わり合いながら生きている人たちがほとんどです。言ってみれば仲間、同志です。
目標を目指しているのは同じ地点だという事もいえます、だからこそ切磋琢磨しているのです、だからこそ衝突も生じるのです。
このことをわきまえてしっかりと聞き入れるという作業、意識を持つことがやはり展開を大きくしていくことになることは間違いがないのです。
明日は「にんげん学」東京講座、東京地区の皆さん楽しみに出かけます、会場でお会いいたしましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌