随処作主

おはようございます。

「にんげん学」一宮講座、本年の初講座ご出席ありがとうございました。嬉しいものですね、昨年に引き続き笑顔で新年の挨拶を交わすことができる、感謝でいっぱいです。
本年も相変わらずご一緒に学んで参りましょう、よろしくお願いいたします。
今夜は「にんげん学」東京講座、東京地区の皆さん笑顔でお会いいたしましょう、楽しみに参ります。
今日は皆さん来てくれるかな〜、どうかなぁ〜と、心は落ち着かなくなるものです、どっしりと構えなければとは思っているのですが、なかなかどうして難しいもので、修練を重ねなければと常に思うばかりです。
「随処作主(ずいしょさしゅ)」。
「ずいしょにしゅとなる」と読みます。この語は「随処に主と作(な)れば立処皆真(りっしょみなしん)なり」という句を四字に縮めたものです。
意は少々難しいのですが、真実の自己のことで、いつどこにあっても真実の自己として行動し、イキイキと活動し、真実の自己以外何物にも動かされず、たぶらかされないことであるのです。
しかし私たちは希望的観測で考え見栄を張り、言葉を飾り己を己自身でよかれと思って誤魔化し、結果傷つき又人を恨むという愚かな結果をまねくことを多くするのです。
お釈迦様は「我れ法王となって法において自在なり」、「私は万物の主人公(法王)となって万物を駆使している」と述懐したのです。
私たちは「時間をはじめ環境や物に使われていますが」、それではいかんということです。そうではなく「それらの主人公として、それらを思いのまま駆使しなければならない」のです。
これが「随処に主と作る」の本当の意味です。
このように随時・随処においてそれぞれの場の主人公として万縁万境を使いこなしていけば、その行為、言行がみな真理に合致し、その時、その場がそのまま真実の世界になることは間違いのないところなのです。
今年は筋道を正す、という年として生きなさいと話をしていますが、以上のようにあれば筋の良く通った生き様が出来るのであります。
しかし私たちを考えてみた場合、果たしてそれに叶うように行動しているかといえばはなはだ怪しいもので、
金を使い、酒を飲むといっているが、あべこべに金に使われ、酒に飲まれている。法を原理原則を駆使するとはいっているが、実は法、原理原則に翻弄され、道具にひきずりまわされている。
自主性、主体性とはいっているが、人目を気にして環境や物、お金にひきずりまわされる結果となっているのではないでしょうか、
「随処に主と作る」をしっかりと尋思し大いに筋道を正し法を活かすようにしなければならないのです、そのためにも「心学」を修めて参りましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌