節分・厄除け開運・採燈大護摩法要

おはようございます。

「にんげん学」小倉初講座お寒い中また週の始まりにご出席をいただき皆様の新たな決意を見る思いでとても嬉しく思っております、ありがとうございました。
昨日書きました独立心、自立心、この覚悟を示して下されたことに敬意を表します。来月もお会いいたしましょう。本年もご一緒に自身の人生のために学んでいきましょう。
「節分・厄除け開運・採燈大護摩法要」。
2月1日(日)は「節分・厄除け開運・火渡り・採燈大護摩法要」です。午前11時から奉修(ほうしゅう)致します是非ご参加ください。
昨日書きました独立心、自立心を持っているのであればこそ祈りも出来ます。宮本武蔵の言葉があります。「我、神仏を祈れども、神仏を頼まず」という名言です。
一条下り松での決闘後武蔵は比叡山無動寺谷(私もここで修業をしておりました)に籠もり修業をしていたとされています。時に仏像を彫り経を唱え、精神修業をしたのです。
彼は若い時代のほとんどを真剣勝負に費やしました、真剣勝負ですから命のやりとりです。そのために「五輪書」に自ら書いているように「千遍を鍛、万遍を錬」と言って日夜鍛錬を怠らなかったのです。教えに忠実であったことを示すものです。
思いとは「祈り」でもあります。思い、祈りとは「生命そのもの」です。教えを忠実にして行動を徹底したということでもあります。
教えを忠実にして行動するときには一点の迷いもなく行動したればこそ「神仏に頼まず」という「教えに任せる」覚悟で修練ができたのです。
私も日々祈り行動を常としております。結果上手く行かなかったときは教えを疑ったことはありません。
結果が思わしくなかったとき教え人を疑うようであっては最初から教えに忠実ではなかった、修練が中途半端であったともいえるのです。最も大事な自分が自ら修練を目指しているにもかかわらず中途半端な気持ちで修練を行ったとしても身につくはずもないのです。
いくら多くの人と会話が出来ていたとしても結果が思わしくないということはいずれにしても祈りが足らず、思いも無い修練もないと言われても致し方がないのです。
成功も大事です、結果を出すことも大事です、しかしその前に修練に必死となって取り組む覚悟、気構えが良い結果を生み、成果をもたらすのです。
心の底から教えに従うこともなく、口先だけで「そうします」と言っているようであっては豊かで充実した人生などはもたらされないのです。
2月1日、「火渡りの荒行」があります。自身の人生に対する覚悟のほどを確かめるためにも筆舌に尽くせない「火渡り」にご参加ください。
燃えさかる火は熱く当然やけどをします、人生傷つかない、痛みを感じないことなどはあり得ないのです。楽な仕事もなく、ウロウロと探し回って良い仕事などもあろうハズもなく、自身が自立するための覚悟が先ず大事なのです。
その覚悟のほどを確かにするためにも火の上を素足で歩いてみてください。そして本気の「添え護摩祈願を」し魂の底からお祈りください。
本気で祈ることがなければ本気で学ぶこともなく本気で修練することもないのです。
祈ってどうなるの、という愚問をおっしゃる方があります、このような方は人の心を知らない愚か者です。また自身の願いを祈ることを持たない、口だけが達者な信頼を得られない人生を送る人でもあります。
思うからこそ、祈るからこそ、修練するからこそ自己実現が叶うのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌