生かされている

おはようございます。

日々どなたかがお寺を訪ねてくださいます、そして共にお茶をいただきお話をします。このひとときが私には幸せの時間です。
何気ない話をする至福の時間。
私の役割って何だろう、と力んで考えたことはありません、しかし「共に」が「役割、使命」だと強く考えてはいます。
そして折々の話から「方向性が示され役割が与えられる」、これが又嬉しくもあるのです。
「活かされている」。
私は「生かされている」と考えています。両親を縁としてこの世に生命を授かって両親の愛によって生かされ育まれてきました。そして今日まで多くの人々の愛によって生かされてきたのです。
何か特別なことが私にあったからではありません、「皆さんの愛情によって」です。
名指しで、指名されて特別な役割を与えられたから生かされてきたわけではありません、そう考えております。
皆様のお陰で僥倖(ぎょうこう)、ラッキーだったのです。この僥倖、ラッキーな出会いに幸せを感じるのです。特別な使命、名指しでなく出会ったことに至福を感じるのです。
よく出会って下された、という感動。
その中で「させていただけることを」懸命にさせていただいたのです。
させていただくということは「お返し」ですから、利を求めてのことではありません、生かされているのですから当然といえば当然のことでもあります。生かされている、それだけで満足なのです。
心華寺も先代が作られ、出会いによって「出来ることをさせていただいている」だけです。このことは理想でも何でもなく、ごくごく普通のことだと思っています。
自然の姿を見廻せば互いが互いを「生かし合って存続している」のですから、人間とても同じであると考えています。
それ以上に必要とするのであればそれは「人欲」でしょう。
人様は私に必要以上の物を求めたりしません、必要な物を必要なときに求めて与えてくださるのです。
良寛禅師は「焚くほどに 風が持て来る 落ち葉かな」と歌いました。そうです、私に必要なだけ人様は来てくださるのです。
今夜は「にんげん学」東京講座、楽しみに出かけます、何人の方が必要としてくださるのか?。一人の方かな?。
一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず、私は一人に万人を観るのです。
一を、原理を、出会いを大事にしない人は出会っても出会っていない人生と為すのです。
東京地区の皆さん会場でお待ちいたしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌