聞いたら見よ、見たら聞け

おはようございます。

昨日は窓枠が音を立てるほど風の強い一日でした、数十年前の小僧の頃、師匠に教えられたことがあります。
「聞いたら見よ、見たら聞け」。
普段聞かない音がしたら見に行け、普段目にすることの無いものを見たら質問せよ、という謂いです。
常に問題意識を持てということ、これを「学問」というのでしょう。
私達は身近な世界で同じ人と日々交わっています、そんな中での大事な心がけです。同じ仕事でもやり方が違うことを多く目にします。その時「何故」という疑問を持つことが限りない進化の可能性の扉を開く本となるからです。
論語「衞霊公第十五」七条に「子曰く、与(とも)に言う可(べ)くして之と言わざれば、人を失う。与に言う可からずして之と言えば、言を失う。知者は人を失わず、亦(また)言を失わず。」。
意は「孔子言う、相手の人と一緒に言葉を交わすべき場合が来ているにもかかわらず、相手と言葉を交わさずにおれば、立派な人物を取り逃がすこととなる。これに対して、人と共に言うべからざる時に、共に言葉を交わすと、失言の過ちを犯すこととなる。ところで知者は、共に言うべき時と言うべからざる時とをよく見分けて行動するから、この二つの失敗に陥ることがない。」
常に私たちの周囲には進化の種が存在しているのです。そのためにも周囲の人に関心を持ち学ぶべきなのです。
周囲の出来事、日常の出来事に、あの人はあの人、自分は自分と分別くさく分けて何の関心も持たないようでは、宝の山の中にありながら気づいていないという愚かを日々くり返してしまうのです。
そのような気持ちであれば外から来たお客様に出会ってもトンチンカンな話しかできないのです。
縁がありながら縁と出来ない、それは日常の在り方、人様との接し方、人様から学ぶという意識の欠落です。学ぶことで進化したことに感謝が無い故の行動ともいえます。
同じ事をやりながら繁栄していく人と、そうでない人の「差の一つ」がここにあるのです。周囲の人に関心を持ち、話すべき事は話、話すべきでない事柄は話さない、行動も会話も全て自分の意志から出ることなのです。
話さなければならない人と話すことで何が得られるのでしょうか?それは「同志の意識」です。会社でも何でもこの同志の感情が在ることによって繁栄と為すことが出来るのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌