入我我入

おはようございます。

昨日は久しぶりに如月の名にふさわしい冷たい朝でした、日中も良いお天気でしたが時折小雪の舞う冷たい一日、今朝も昨日ほどではありませんが冷え込んでいます。
空気が乾いていたせいでしょうか、護摩の炎が透明感があり吸い込まれていくような思いに駆られ気持ちの良いお勤めをしました。
毎日の護摩を気持ちよく修しているわけですが、その時々によってやはり感慨は違うもので、これは当然なことだとも思っています。
「入我我入観」。
「にゅうががにゅうかん」と読みます。我が御仏の世界に入り、御仏が我の世界に入るという観相の世界観です。いわゆる三昧観、一体となる境地、これは自身が自身で感じる境地ですから誰も知るよしもありません、またこの境地も一度だけというのでは何もならないのです。
いわゆる主体と客体が一体となる、我をしっかりと意識して「無我となる境地」です。
祈るとは常に「我即ち本尊、本尊即ち我」という感想を持つことなのです。表現を変えれば「我即ち信者、信者即ち我」観を日々行っているのです。
護摩の炎の中に「祈願者の顔を想い念じ」、祈りによって「祈願者の魂の中に入っていく」のです。そうすることで祈願される皆さんの心願成就を祈るのです。
先日も書きましたが祈るときの私の心は「御仏の心でおります」、「御仏の身体であります」、「御仏の言葉を語ります」。
私たちは何事に於いても「学んだ」のです。そして「知った」のです。そして「実践する」のです。言ってみれば己でありながら「己の言葉を話しているのではない」のです。
ですから心を正し、言葉を正し、行動を正すことが「真の心、言葉、行動となる」のです。
このことを日々実践しているのが「祈り」であり、祈れば言葉の示す「正しい世界に導かれる」のは当然なのです。
心も、身体も同じ事がいえるのです。
知識という世界もこのように考えていきますと、また違った価値観が生まれるはずです。行動するのは確かな世界観、論理性があるからで、やってみなければ分からないというような論理性のないことを日々努力はしないのです。
ただ頑張れ頑張れと言ったところで論理性がなければただの根性論であって疲れ果ててしまうだけとなるのです。
祈り、論理を確かにすればどのような人と出会っても日々の三昧の境地によってスイッチが入り一体感となって「同志となり」夢、希望を共有できることとなるのです。
そこからは果てしない展望が開かれていくこととなるのです。三昧とは無意識の意識状態ですのでそこにはもはや利害は無く、打算もないのです。
人生は「共に歩む人が在れば勇気は損なわず」希望も失わないのです。そして裏切られたという今までの人生を否定するような悲惨な感情すら生まれないのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌