諦観

おはようございます。

今朝は下関愛宕寺、昨日夕方に入りました。先月とは違って新幹線も空いていて静かでした。広島を過ぎた頃から雨が落ちてきたようで、電車を降りてみると本降り。
明日は24日ですので愛宕寺の「月例開運幸福護摩祈願祭」、午前10時からですので是非お参りください。
人生は思い通りにはいかないものですが、だからといって夢を忘れてはいけません。それ以上に人様は自分の思い通りには行かないものです。
昨年までの十一年間連続で自殺者が三万人を超えたとの報道、沢山の方が周囲におられるにも関わらず孤独感にさいなまれた死、いかばかりかと冥福を祈るばかりです。
「困った時の神頼み」もしてください、周囲の方に何か悩んでいるような方がありましたら、相談するようにお声かけをしてみてください。
「諦観(たいかん)」。
物事の本質をはっきりと見きわめること。世の推移を確かにすること、あきらめ、悟って超然とすることの境地を諦観といいます。
諦観を持つことで後悔せず、過去にとらわれずに「前を向いて歩む」ことが可能となるのです。
失敗は「失敗と認める」諦観、「過ちは過ちと認める」諦観、そして「人を責めない、うらまない」諦観。良いことがあれば「お陰様という」諦観、上手く行っているときも、「みんなの力という」諦観。
「智はなお水のごとし、流れざるときは則ち腐る」(宋名臣言行録)。
意は「水はたえず流れていないと腐ってしまい、飲み水としては使えなくなる。「智」もそれと同じように、たえず使っていないと、錆びついて使いものにならなくなるのだ」ということです。
執着心、こだわりから頭も錆び付くのです。常に頭を使って、工夫してこそ名案が浮かんでくるのです。日々「どうすれば、どうすれば」という工夫を重ねていてこそいざというときのアイデアはうまれるものなのです。
われわれはよく、事が終わってから「ああすればよかった、こうすれば良かった」と後悔をします。これを「愚者の後知恵」というのです。
どんな名案でも後から浮かんだところで後の祭りでは仕方がないのです。こうならないために「諦観」を持つ、そのためにも祈り、学びは常としなければならないのです。
二月の最終週、しっかりとけじめをつけて「諦観」するように歩んで参りましょう。明日はご一緒に祈りましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌