駑馬(どば)の如く

おはようございます。

私はある時から人とは競争しないという生き方をしてきました。競争はしませんが望み夢がなかったというのではありません。
「驥(き)は一日(いちじつ)にして千里なるも、駑馬(どば)も十駕(じゅうが)すれば則ちまたこれに及ぶ」。(荀子(じゅんし))。
「驥」とは、一日に千里も走る名馬であります。人間でいえば、天才といってよいかもしれません。
これに対して「駑馬」とは鈍才であります。天才に比べれば十分の一くらいの能力、いやもっと劣るかもしれません。だがそんな「駑馬」でも、十日も走り続ければ「驥」の一日の行程に追いつくことができるというのが、荀子の語です。
言うまでもなく、これは、普段の努力の大切なことを語った言葉です。
せっかく立派な目標を立てても、実行に移さなかったら、「画(え)に描いた餅」に等しいのです。また、実行に移しても、途中でやめてしまったのでは、これまたなんにもならず。なにごとも継続することによって、豊かな実りが期待できるのです。
せっかく目標を持ったのに何故継続が叶わないのでしょうか、それは最初から目標を持っていなかったのか、他のことに惑わされてしまったのか、いずれかです。
私たちは無意識のうちに比較しています、「比べるという無意識がある」ということです。この意識によって友達と一緒にやった物が出来なければ「恥ずかしいと思う」のです。いわゆる「羞恥心」です、人間として当たり前の気持ち。
そこで古人は「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」と明言もしたのです。
出来ずに恥ずかしいと思うのであれば、その気持ち以上に「乗り越える気持ちを持つべき」なのです。
この心が真の「羞恥心」なのです。
人生の敵は「我が心に在る」ことを知らねばなりません。
人は出来ないことを「恥とは見ない」のです。恥と見るのは「出来ないままにしておくこと」「努力しないこと」を「恥と見て軽蔑する」のです。
努力する人を見れば誰でも「賞賛し助言を与える」のです。これが「人間愛」です。
出来ないことをそのままにして平然としているようでは「人間ではない」ともいえるのです。
比較できるのが私たち人間でもあるのですから、「的確に」自分と他を比較して十日で他の人の一日分であっても歩めば進むことを知ることです。
物事の道理を知れば「正しさに止どまれる」のです。正しさとは道理に基づき「己を高めること」です。
才能のない人は誰一人いません。一日を千里走るのか、十日で千里を走る人の一日分しか走れないのかだけの違いです。
このことを知って私は「駑馬」で有り続け歩んでいるのです。何故かといえば「恥を知ったから」です。
自己啓発の出来ない人間は何も得られません、ましてリーダーたるものは「駑馬」に見習って、一日も自分を鍛えることを怠ってはならないのです。
今夜は「にんげん学」小倉講座、会場でお待ちいたしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌