無用の用

おはようございます。

「にんげん学」京都講座ご出席の皆さんありがとうございました。昨夜は普段は大阪講座にご出席いただいております、Yさんが伊丹からご出席くださいました、大阪講座をお休みでしたので京都へということで、感謝いたします。
孟子の四端(したん)の説、端緒(たんちょ)から心情を察することがいかに大切かの一端が理解されたことと思います。
人間関係の中では行動の一端から心情を察することほど大事はありません。
人生は結果、答えを出さなければならないのは当然です、故に個々それぞれ違った心情を持っていることを察し、適材適所とするためにも、人材を生かすためにも「心情」を学ぶことは大事でしょう。
「にんげん学」を受講することも大事ですが、また時には泊まりがけで寺で読経と作務(さむ)の一日の修業もいいことです。今まで感じられなかった自分を感じることが出来ることでしょう。
「無用の用(むゆうのゆう)」(荘子(そうじ))。
荘子」にある語で、これは「人間、世の中から一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしている」、という意味です。
私たちはややもすると「役に立つ立たない」という「二元論的思考」で物事を見ていこうとします。このことは一見合理的のように感じられますが、何でも答えが決まっているようなことばかり追求していきますと結果「神経衰弱、ノイローゼになってしまうのがオチ」です。
多くの人は雑用と思われるものをいやがります、現代的に言えばアナログをいやがるとでも言いましょうか、デジタル、機械的、合理的な物を欲する。
こうなりますとある意味では言い過ぎかもしれませんが、意識、心が知識の「奴隷」となってしまっているともいえます。
部屋でも何でもそうですが、必要な物ばかり置いておりますと空間、ゆとり、余裕が無くなり、常に強迫観念にとらわれてしまい、二進も三進もいかなくなってしまうのです。
意識も同じことです。
二元的に物事を見ていく人が楽しんで人生を歩んでいくかと言えば、案外そうではなく、逆に苦しんでいる人を多く見るのです。
なぜ苦しむかと言いますと、何事も二元的ですので、自分が大切な仕事をしていながら、自分の意識の中で判断をしてしまい、不足を思うからです。
仕事となるには多くの要素があって仕事となっているのです。ところが二元的に見る人の多くは表面的な目に見える世界でしか判断できず、そこで善し悪しを判断し、上下を見て、下と感じたら嫌になる、上と感じれば喜んでする、といった具合に常に一喜一憂して心に落ち着きが無くなるのです。
寺は奉仕の世界、布施の世界。何をやっても見返りを願わない、評価を待たない、自分が行うことに喜びを感じ、率先して何事も行動するのです。
いわば歓喜の世界です。
周囲の人が何か仕事をしていれば率先して手伝う世界、対立のない世界。お手伝いですから、どうすれば役に立つかを喜んで考えていくのです、範囲がない、固定観念にとらわれない。
この意識が思いやり、アナログです。人から評価を得るためではなく、何とか目の前の人の役に立とう、役に立ちたいという思いやり。仕事が終わればそれ以上に期待をしない、恒に淡々と身を処する。
ですから自然発想が豊かになり、人様の使いやすい役立つデジタル的な発想も可能となるのです。文々句々を覚えることも大事ですが、それ以上にとらわれない心を再発見することも大事なのです。
そのためにも一見無用だと思われるものに懸命になる自分と相対する事も必要なのです。そのことで又新たに人の素晴らしさも見え、自分の中に在る対立を超えて動く喜びと出会うはずです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌