失敗が進化を

おはようございます。

いいお天気が続いています、花吹雪も何か気だるそうです、しかし散る風情もきれいです、どんなに豪華に咲いた桜でも散る姿を見るとやはり無常を感じます。
無常だからいいのかもしれません。
「失敗が進化をもたらす」。
今日までの人生を振り返ってみますと、失敗を多くしており注意も多く受けています、今ではその失敗も楽しい想い出で懐かしくさえ思い出されます。
師匠に叱られ、叱っているのではなく、注意してくださっているのだという親心も知らず、恨んだこともありました。兄弟子達の叱咤も同じように受け入れがたい気持ちばかり、鬱々として行き詰まるばかりで、どうすることも出来ない自分、どうしようもない自分。
今思いますと、ありがたいもので、寺の日課の始まりは自然との対話です、掃除(作務)から始まります。そのことが良かったのかもしれません。
修業は皆さんのように家から出勤し、夕方家に帰るという生活ではありません。合宿生活、いつも師と兄弟弟子と一緒の生活、頭の先から足の先まで一挙手一投足全て監視された生活、管理されている生活。
庭を掃いたり、薪を作りに山に入ったりしたときが唯一の一人、ものを言わぬ相手と対する時間、その時にきれいにする、薪を上手く作るという工夫に目覚め、喜びに目覚めたようです。
苦があったから何かに夢中になるものをつくった、目の前が嫌なことが多くあったから、目の前のことに夢中になることを探したようです。
苦しいから何度も逃げだそう、坊主をやめようと思いました。しかし、やめてどうなるのだろう、逃げてどうなるのだろう、という不安でいっぱいでした。
そうこう悩んでいる中で、目の前の掃除や薪作り、雑事をひたすら嫌なことから逃げるようにして無心にやりました。
そんな中で、動くことの喜び、動くことに感動を覚えたのです。
変な話で、人様は意のままにできないものだというあきらめ、達観が生まれたのです。
どうすることもできないものは、どうもしないでおこう、自然と同じように考えようと、どんな言葉も、相手のどんな行動も受け入れていこうと決めたのです。
そうしたら不思議なことになんでもなくなってきたのです。
人は桜の花を育てようとせずに、その美しさだけを愛でます。それは罪ではありません、当たり前のことです。
散る姿に無常を感じ、はかなさをも感じます。しかしどうしようもないのが現実です。しかし桜の花を人は愛するのです。それが自然です。
花は苦しいからといって愚痴を言わず、美しいからといってほこらず。
しかし人間は情愛があります、それは同情を願うのではなく、人を愛するためであるのだと私は気づかされました。
叱られても許されてきた現実、注意されても見捨てられなかった現実があったればこそ今日があります。耳障りの悪いことは確かに嫌なものです、しかし気づかなかったり、気づけなかったりすることも私たちには多くあるのです、それを知りました。
苦しかったからこそ、失敗を多くしたからこそ今このように感じることが出来ています。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌