おはようございます。

「にんげん学」東京講座、ご出席の皆さんありがとうございました。雨が心配でしたがお陰様でした。
昨日書きましたが道連れ、共に歩むことが出来ることの喜びを再確認できました。
6月は12日(金)です、一ヶ月しっかりと予定をこなし来月もご出席くださいますよう。
人を認める、受け入れる、人の存在に感謝することが如何に大事かを日々実感しています。
私たちの能力は人様によって確かなものとして発揮されます。では私たちの能力を確かに理解してくれるかと云えば?です。
?であるからこそ理解を深めるために先ず人様を「認める、受け入れる」という在り方が大事です。自身が「どのような思いで人様と出会いをするか」ということです。
自身が「先ず相手を認めなければ」人様は決して認めてはくれないのは当然です。
皆さんはどのような人が好きですか、私は「自分を受け入れてくれる人」、そして「自分のために学ぶ人」が好きです。
「器を広める」。
論語「為政第二、十二条」に「子曰く、君子(くんし)は器(うつわ)ならず。」とあり、        
意は「孔子言う、成徳の君子は、器のように、一つの専門のことだけ役だって、他の事には役立たぬというような、融通のきかないものではない。」。
思わずうぅ〜んとうなって感嘆してしまう語です。
器は椅子とか机とかいううつわであります。椅子は椅子として役立つが、机の用はなさない。机は机として役立つが、椅子の用はなさない。成徳の君子は、人間として全人格としての完成者であるから、かかる一曲の器ではないというのであります。
このような立派な人は少ないことは間違いのないことでしょうが、しかしこの語は大いに考えなければいけません。
私たちは多くのことを出来ると云うことはまず難しい問題です、しかし多くのことは出来ませんが、「多くの人の役に立てることは出来ます」。
椅子は椅子として机の代わりにはなりませんが、「椅子は万人に必要」ではあるのです、こう考えていきますと「無限の可能性」があることが分かって来るのです。
そこで器を広げると云うことの出来ることも現実味がわいてくるのです。
この世はたいていの仕事は大凡似ているものです。そこでじっくりと見渡しますと活躍を多くしている人と、なかなか出来ない人がいるのです、どこでその違いが出てくるのでしょう。
それが「相手を認めるか否か」にあるのです。
相手を認める、受け入れるという姿勢、対応が「器を広げる」こととなるのです。
なぜでしょうか?それは「受け入れてくれる人が誰しも好きだ」からです。そして常に「学びをする」人が好きなのです。
向上心の無い人や自己啓発心の無い人、これは孔子の言う「器の人」で融通がない、自分は出来ている、自分の実力を分かって欲しいという人ですから、これはよろしくありません、人様のために「役立とう」という意識がないからです。
いわゆる可能性を示すことが出来ない、可能性というものを理解していないのです。
相手を認める人、受け入れる人は、自分は「一つのことしかできない事を知っていながら」、「この人のためにはどうすれば」、「あの方のためにどうすれば」という自身の器を広げる自己啓発が出来るのです。
あれもこれも出来ることはできないからこそ「己を知り」出来ることの可能性を広げるため、器を広げるために出会いを大切にしなければならないのです。
せっかく技術や能力を持ちながら行き詰まるという結果を導かないためにも「あの方のために」という意識を持つことが大事でしょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌