巡礼

おはようございます。

もうすぐ誠澄たちは善光寺へ出発です。巡礼、人生は毎日が巡礼、同じ札所を巡る巡礼の旅、何度巡っても終わりのない旅路、しかもその旅路は充実している旅であり、いろいろな楽しい出会いも沢山。
未来は未来ですから分かりようがないのですが、心のどこかに漠然としながらも確かなイメージのある楽しい未来、不安の無い未来でもあります。
参加者の皆さんはきっと口に出せない喜びを感じて帰ってくることでしょう。
何度でも何度でもお参りしましょう。一度行ったから、二度行ったからではありません、何度も何度もご一緒しましょう。このたびは私は残念ながら留守番です。
「道を求める」。
巡礼は訪れる地に祀られております「御仏の功徳に与(あずか)るために参るのです」。また信仰を深め恩寵(おんちょう)に与るためでもあるのです。
信とは非常に能動的になります、また疑いを持つことがなくなり極めようとする心が意欲的になります、そしてどこまでも尋ねる力、求道心となり、信力ともなるのです。
論語、衞霊公第十五、第十六条にも「子曰く、之を如何(いかん)せん、之を如何せんと曰(い)はざる者は、吾之を如何ともする末(な)きのみ。」とあり、
意は「孔子言う、どうしたらよかろう、どうしたらよかろうと、みずから思慮を尽くして解決を求めながら、しかも求め得ないで苦しんでいる者でなければ、私としてもその人を何ともしてやりようがない。」。
心から己の足らざる事を悲しんで、積極的に道を求める熱情の起こって来る者でなければ、これを教え導いても無駄であることを言ったものです。
言葉では求めているようなことを言いながらさっぱり行動しない人を見受けます。行動がないということは言い訳をしているに過ぎないのです。
そのような人間は孔子でさえも如何ともし難いといっているのです。
巡礼者は御仏の加護を信じ自分の非力を嘆きながらも、その恩寵を受けようとする行動なのです。
このような行動を行う人は「己の足らざることを知っていますから」、現実の生活では感謝の思いを厚くして人様に対する故に様々な面で又ご利益を得る人生と為すのです。
皆さんを見送ってから朝の護摩を修します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌