傲慢にならないために

おはようございます。

人は人が大事であることを知っておりながら無意識のうちに人と接するに「出処進退を誤りますと墓穴を掘ってしまう」ことが往々にしてあります。
この過ちを犯す人の傾向としては「知識を知るだけのこととしている」ことが多いのです。知識を知識としていますから自分では「一向に気づかないという落とし穴にはまりこんでいる」のです。
また人の存在を意識していない、ということも言えます。ですから「機械的に出会いをしてしまい」、人として最も大事である、「情の出会いをしなくなる」のです。
情の出会いとは、出会えて良かった、出会えて感謝、という気持ちです。
「情が希薄」なのです。ですから出会ったとしても「次がない」のです。継続的「お付き合いができない」のです。出来ないというよりも「相手が情を感じませんから」付き合わなくなるのです。
しかしこのような現実があったとしても気づかないのです。
ですからこのような方は経験したり、体験したりしたとしてもその経験、体験が「次に活かせない」のです。
それは感謝がないからであって、「まねぶ=学ぶ」ことが出来ないのです。
人生の中で重要なことは対人関係です。人様は「十人十色」。出会いからその人柄や気質を「学ぶ」ことが可能なのです。相手によって対応を変える。
しかし知ることに止まっている人はこの「学ぶ」ことが出来ないのです。それは「相手を思いやる感情が薄いから」とも言えます。
「傲慢不遜に陥らないために」。
出会えて良かった、出会いをさせていただいて嬉しかったという「情がない」故に「情報と出来ない」のです。経験や体験を「次の出会いの準備と出来ない」のです。ですからこのような人は何度やっても同じ過ちをくり返すのです。
このような方は、何で?という周囲に対しての疑問はあったとしても「自分に求めようとはしない」のです。
このことが「知ることで良しとする人の傾向でもある」のです。
このような人は年令を重ねれば重ねるほど、知識を知識とすればするほど社会に役立ちませんから自然社会からはじき出されるという最悪の結果を自ら招いてしまうこととなるのです。
知ることで良しとする人はどのような人格を形成していくかといいますと「不遜(ふそん)」な人格を形成することになるのです。不遜とは「おごり高ぶる・偉ぶる等」の意味があります。
論語「述而第七」第三五条に「子曰く、奢(おご)るときは則ち不遜なり。倹(けん)なるときは則ち固なり。其の不遜ならんよりは、寧ろ固なれ。」。
とあり、意は「孔子言う、人はおごると必ず不遜驕慢となり、倹約過ぎると、必ず頑迷固陋(がんめいころう)に陥る。共によいことではないが、どちらかといえば、不遜であるより、頑固である方がよかろう。」。
我々は知ることで実践できずとも出来ると勘違いをして往々にして不遜に「無意識に陥りやすい」のです。この意識の傲慢不遜が己を過った世界へ導く悪魔のささやきであることを知らねば、あっという間に奈落の底に陥ってしまうのです。
傲慢になることを厳に戒めましょう。人間の過ちは少し気をつけるだけで防げることがほとんどなのです。心の過ちは「これくらい」という考えが大きな事となることを知るべきです。
せっかくの能力が心の在り方で生かされず、自ら破滅に貶めることほど愚かなことはないのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌